東北太平洋沿岸に走る全長1,025kmの長距離自然歩道、みちのく潮風トレイル。町を歩いて峠を越え、谷を下って海に出る。バックパックひとつとたくさんの人に支えられて歩いた去年の秋の二ヶ月を、残した写真と、一緒に歩いた地図をお供に連れて、一歩一歩思い出しながら書いていく。

マリンサイドスパたねいちまで 海岸沿いを歩く

 データブックを見て「ここで補給をしよう」と思っていた商店は、実際行ってみたらやっていなかった。しょうがない、こんなに長い道なのだ。商店の一つや二つやっていなくて当然だと思う。幸い昼はもう済ませてあったので、夕飯と明日分の食料は宿に着いてから近くのスーパーで補給するので問題ない。そのまま海岸線を進んで、公園のようなところをしばらく歩いた。文字通り海のふちを歩く道で、晴れの日、海のにおいと、石、草、灯台越しに学校が見えたのを覚えている。もし日が落ちてきていたらここでテントを張ろうと思っていたのだけど、地図を見ると宿まであと8kmほどしかないようだ。少し急げば二時間と少しで着くだろうと、気持ち歩幅を広くしてそのまま歩いていった。灯台の下には広くて平らな芝生が広がっていて、多少海風は強いけれど、テントを張るにはいいところだと思った。

 種市までの道は松並木が印象に残っている。その横をひたすらてくてく歩き、自作したドライフルーツと柿の種ミックスを行動食として食べながら走る車を横目に歩いた。途中にあった種市高校は、私が小学生だったころ大流行した連ドラ、あまちゃんの撮影舞台だったらしい。しかし我が家には地デジ化からテレビがないので、残念ながら2013年放映のあまちゃんは観られていないのだ。あるはずの感慨を取り逃がしたようで、少し損をしたような気持ちになる。それでもつられて刺激される記憶はあるようで、地デジ化の最中「カクカクシカジカ」と言いながら踊る地デ鹿(チデジカ)のCMが流れていたこと、クラスの明るい子たちが合いの手のように「じぇじぇじぇ!」と連発して、給食の時の放送では「暦の上ではディセンバー」が流れていたことなどを、なんとなく思い出していた。

 道中、五人くらいのおばあさんの集団に会った。こんにちは、とあいさつをすると、元気のよい返事が返ってくる。見ず知らずの人にあいさつできて、あいさつが返ってくるなんて。東京ではありえない光景だ。さらには「トレイルの人?」と話しかけてくれるものだから、もう少し疲れていた気持ちもぷわっと嬉しくなってしまう。一人で歩いてるの?八戸から!コロナがなきゃうちに泊めてあげるんだけどねえ、と軽快に進む会話に、残念です、でも、お話してくださってありがとうございましたとお礼を言ってお別れをした。一人で歩いている身としては、こうして地域の人の方から話しかけてもらえるだけでほっこり温かい気持ちになるものだ。そういえば昨日の歩き初めにも、挨拶をしたら「トレイルか?」と聞いてくれた散歩中のおじいさんがいたっけ。トレイルの知名度はまだまだ低いと思っていたから、こうやって私の恰好を見て、トレイルを歩く人だと気づいてくれるのが嬉しかったなあ。

 宿までもう少し、というところで、ずっとまっすぐ歩いていたのを左にくいと曲がり、林を挟まず直接海に面する道に出る。あと1km半ほどで宿に着く。絶対に今日中に種市に着くと朝から息巻いていたものの、さすがに登山を含んだ25kmは肩と足に辛い。この時はまだ水を2L背負っていたから、荷物も8㎏近くあったのだ。足裏の痛みで肩の痛みがかき消されているような、かと思ったら逆のような、そんな状態で歩く1km半。長い。空では夕焼けのピンク色が夜の青に忙しなく追いかけられている。あと少し遅かったら日が暮れていたなと、東門で1時間も休憩したことを若干後悔しながら歩を進める。最後は後ろから歩いてきた散歩のおじいさんにも追い越される始末で、ようやく視界にピンク色の建物が見えてきた。今日の宿、マリンサイドスパたねいちだ。やっと、と逸る気持ちを抑えながら、棒のようになった足を動かして裏口に到着する。どうやら階段を上らないと入り口にたどり着けないらしい。げんなりする暇もなく、とにかく力を振り絞って足を持ち上げ、受付を済ませて部屋に行く。靴を脱いで、重い荷物を置いて、到着!ここはもう宿で、外は町だ。荷物はここに置いていける。日が暮れても外を歩けるのだ、身軽に!とりあえず、まずは風呂に入ろう。

部屋から見える海

種市にて

 風呂に入っていた時の記憶はほぼない。それだけ疲れていたのだと思う。替えの服に着替えて部屋に戻り、外を見やると海が見えた。安全な壁に囲まれた場所から見る夕暮れの海はきれいだ。さっきはあそこを頑張って歩いたなあー、など思いながら海を眺めつつ寝袋をバックパックから出して、広げて干す。着ていた服をエコバックに入れて、モバイルバッテリーを充電するのも忘れてはいけない。大事な情報源の確保と、いざというときの命綱の保証は、いつ何時も怠ってはならないのだ。そこまでやって、やるべきことの大体は終了。夕飯を買いに行くまで、しばし休憩時間に入る。明日の天気、迂回路情報や潮位表をスマホで確認。天気が微妙でもやっとする。明日はMCTで一番大きな渡渉ポイントである高家川が控えているのだけど、秋の長雨で水量が増しているらしいのだ。その上雨なんて降られたらまず渡渉は諦めなくてはいけない。もやっとした憂鬱な気持ちのまま、他の確認を進める。日の入り日の出の時間も、この時はまだチェックしていたと思う。 地域ごとに細かく注意情報が載っている名取トレイルセンターのホームページは要チェックで、特に私の歩いた年は東北地方に大きな台風被害が出た翌年だったから、道が崩れたり途切れたりして迂回路が多くなおさら確認は欠かせなかった。こんなに長い道の状況を確認して、繋いで、ここに載せてくれたトレイルに関わる全ての皆様、本当にありがとうございました。

 他にもFacebookのハイカーズコミュニティで載せられた情報を確認したり、友人と連絡を取ったり、そうこうしているちにあっという間に日が沈んだ。歩いている間はあんなに時間がゆっくり進んだのに、まるで違う世界に来たみたいだ。そろそろ夕飯を買いに行かなくちゃと思ったときには、外はもう真っ暗だった。スーパーに行く準備をしている最中、ふと思い立って窓の外を見る。真っ黒な海の上にはぽっかり月が浮かんでいて、予想通り、きれいなムーンロードをこちらに渡していた。波のすき間に黒い光を散らしながら、とよとよと漂う月の道。もしかしたら見えるかもとは思っていたけれど、こんなに真正面から見られるとは。薄い憧れを持ちながらも今まで名前しか知らなかった存在に、信じられないものを見たような、魔法にかけられたような、不思議な感覚を覚えた。思わず写真を撮って、全然きれいに撮れなくて、でもそのことに、なんだか安心した。

 暗い中でも街灯の明かりを頼りに「歩ける」ということが新鮮で、軽く浮足立ちながらスーパーへ向かう。着ていた服をコインランドリーに入れ、スーパーマーケット「ユニバース」へ。スーパーの中は日没を知らないみたいに明るくて人口密度もギュッと上がるから、ここだけ別の場所から切り取ってきたんじゃないかとつい思ってしまう。まあそんな感想も、買い物モードに入るとさっと掻き消えてしまうのだけど。今日の夕飯と、明日の朝食、昼ごはん…今日の夜と明日の朝分は重さを気にしなくていいから、好きなだけ買い込める。タンパク質の総菜や、フルーツゼリー、写真を見返すと、調子に乗ってハーゲンダッツも買っていた。そういえばこの時試しにサラダパスタを買ってみたのだけど、後日ストーブで沸かしたお湯に入れるだけでかなりおいしく食べられるということを発見した。一緒にサラダ用のドレッシングを入れると味がついておいしいと思う。まあこの後なかなかいいタイミングで大きなスーパーが現れず、パスタを食べたのはここで買った分が最後になってしまったのだけど。

 宿に戻って、ご飯を食べて、アイスを味わい、少しテレビを見た。布団を敷いて、ストレッチをしたら早々に目を閉じてしまう。この布団のやわらかさよ!公然と人の寝る場所に寝られる安心感、やわらかい背中、きれいな白い布。布団のありがたみをひしひしと痛感して眠りについた。