侍石ロック

 シンと動かない空気の中、アラームの音で目が覚める。10月の頭にもなると日の出も遅く、太陽の光で自然と目が覚めることもないから、毎朝アラームをかけるようにしていた。万が一寝坊でもしたらその日の予定が狂ってしまう。予定が狂う、というよりも、明るいうちに泊まるところに到着できないのが怖かったのだ。寝場所を探すために暗い中森を歩く知識や勇気は私にはまだ無く、ガイドブックやマップを駆使し、時間を計算し、あらかじめ寝る場所の目星をつけて歩くのが私のやり方だった。
 大体の荷造りをしたら外に出てテントを畳み、軽い朝食をとる。Nさんも起きてきたな、と思っていたら、あっという間にテントを畳んでしまった。早い。その間に私は軽くストレッチをして、準備ができたら一緒に出発だ。この日の出発時刻は6時半くらいで、Nさんは一人の時はもう少し遅く出発すると言っていた。初めてここを歩いたときは、きのこ屋でゆっくりしすぎて夕方暗い森の中を歩く羽目になったらしい。歩き方も人それぞれだ。危ないなあ、とは思うけど…。

 この日は道程に余裕があったから、まずは昨日歩けなかった侍浜の自然歩道を歩くことにした。そのままルートを進んでもよかったのだけれど、高家川を迂回したと言ったら、他のハイカーさんに「その前の道を歩かなかったなんてもったいない!」と言われたのだ。さすがに川まで戻る時間はないから、1キロ前の侍石まで行って戻ってくると決めて歩き出した。
 久々に歩いた自然歩道はやわらかくて、あれ、こういう体験をそういえば、私はどこかでしたことがあるな、とふと思い出した。そうだ、小学校の遠足だ。社会科見学だったか遠足だったか、連れていってもらった森の中でこういうやわらかい土を踏みしめながら、落ち葉と微生物がこういう土を作ると教えてもらったのだ。 地面ってこんなにやわらかいのかという衝撃は、毎日アスファルトの道を往復していた私の世界をちょっと変えた。海を右手にフカフカと松林を北上していくと、すうっと視界が開ける。侍石に着いたようだ。
 辺り一面につるりと広がった岩の上には何も生えていなくて、視界を遮るものが一切ない。ただ長く、遠く、遥かに広がる水平線に、目を回しそうになるばかりだ。パノラマ撮影じゃないと収まりきらない海の広さは、初めて眼鏡からコンタクトレンズにした時の視界と似ている。一気に広がった視界に追いつくのが精いっぱいで、景色が頭に入ってこない。ずっと海を見ていなくてはいけないような気分になる。が、足元がおぼつかないので、現実では半分くらい岩に意識を向けているのだ。それが残念なような気もしたし、一方で、半強制的な感動から逃れる理由ができたことに、安心している自分もいた。

 岩場の隅にある立て看板には名前の由来が書いてあって、かつて侍浜を訪れたお侍さんの休憩所に使われたのが「侍石」の始まりだそう。確かにここは海に向かって開けているから眺めもいいし、平らで座りやすいと思うけれど、ちょっと足を滑らせたら眼前に迫る海に落っこちてしまいそうだ。私だったら安心して休憩はできないなと思った。昔のお侍さんは、こんなことでビビっていたら命がいくつあっても足りなかったのかもしれないけど。

 侍石は英語でsamuraiishi-rockと表記してあって、石、で既に岩の意味を察することができる日本語話者の私からすると、なんだか変な感じがした。でもそうでない人からしたら「ishi」はただの音でしかないから、言葉の持つ意味を正確に伝えようとした結果「rock」とつけざるを得なかったのだろう。つまり、違う言語を話す人々が何かを読んだとき、全く同じ感覚を得ることは不可能なのだ。翻訳家の人はすごいなあ。そんなことを考えていたら、いきなりあたりに大きな音が響き渡った。

 何?と思ったのも束の間、すぐにあまちゃんの主題歌だと気づいた。冒頭のあの印象的なメロディーは、一発でそれとわかるほど耳に染みついている。私が小学生の時に全国的なブームとなった連続テレビ小説。そう、ここはもう久慈市。あまちゃんの舞台となった場所だった。ドラマは見ていなかったけど、始まり!と一日の幕を開けてくれるようなこの楽しげな音楽に、歓迎されているようでうれしかった。というか、こんな朝早くにもチャイムが鳴るのか。私が住んでいるところは午後5時のチャイムしかならないから、ちょっとしたカルチャーショックだ。こんな時間に大音量でチャイムを流すなんて安眠妨害だ!という苦情が来るのではと心配してしまうのは、都会の狭量さに慣らされてしまっている証拠だろうか。

 チャイムが鳴ったのが7時。観光だったらその日の目玉にもなりそうなスポットを見ても、私たちの一日はこれからだ。そろそろ出発しないと町に着く前に暗くなってしまうと、来た道を引き返していく。少し歩くとすぐ横沼展望所に着いて、せっかくだから登ることにした。石で足を滑らせないよう恐る恐る登っていた割には、展望台の頂上には案外すぐ到着した。海に向かって右側に切り立った武骨な海岸線が続いている。小さい時に見た霜柱を思わせる、柱が集まって崩れたようなこの岩の海岸の上に私たちのいる展望台は乗っかっているようで、高いな、と足元を覗いていると、Nさんのうわっ!という声が聞こえた。どうしたんですか?と聞くと、人がいるというではないか。こんな崖のどこに…とNさんの見ている方に視線を投げると、本当に人がいた!クライミングに来た人だろうか、釣り人だろうか、ここから崖を見下ろすだけでも怖いのに、身一つであんなところに降りるなんて、よくやるなあ。高校の教科書で読んだ話を思い出した。クライミングが好きな少女の話で、1回練習中に落ちて背骨を折ったこともあるのに、崖を上ることをやめようとはしなかった、彼女の熱量はすごい、という内容だった。いやはや本当に、よくやるなあ。けれど、それだけ何か人を強烈に惹きつけるものがあるんだろう。だって今このご時世、人間は崖を上らなくても安全に命をつなぐことができるようになったのだ。それでもなお崖を上りたがる人間という生き物は、やっぱり変で、おもしろい。

ゴツゴツというより、ザクザクという形容詞が似合うような海岸線。この岩肌に張り付くように人がいたのだ。

 ここまで書いてそういえば、人間は1,000kmを2時間で移動する手段を持っていることを思い出した。そこをわざわざ2か月かけて歩こうとしている私たちも、他の動物から見たらよっぽど変である。人間は、生活の中で変なところがないと生きていけないのかもしれない。変にしないと見えなくなってしまうことが、この世の中にはたくさんできてしまった。生活を便利にして、それでいろんなものが見えなくなって、それを見つけなおすためにわざと不便なことをする。ふむ、やっぱり、人間は変だ。

あっ

 展望台から1キロくらいは、ちょこちょこアップダウンのある自然歩道が続く。ずっと平らな舗装路を歩いていた私は少し息が上がって、あまり口も動かさずに歩を進めていた。体が冷えない程度の小休憩は時折挟むことにしていたので、舗装路に出て、次の自然歩道に入るタイミングで一回腰を下ろす。2人ともそれ用の小さなマットをお尻の下に敷いて、行動食(おやつ)を食べる。ぽつぽつと喋りながらふと顔を上げると、ショッキングピンクのガクの中に包まれた、体に悪そうなガムのような真っ青な実がなっているのに気づいた。アメリカのお菓子のような毒々しい外見に、これが本当に日本の山林に結実するものなのかと疑ったほどだ。青い実もピンクのガクも、別々の植物に属しているならまだいいのだけれど、この両者が1つの植物に同居しているのがよくないというか、異様だ。秋の林の中派手に目立つこの植物はこの後も見かけるたびに思わず話題に出してしまう存在となったのだけど、あれ、一体何て名前だったんだろうか?

これ

 東北の森にはクマが出る。シカも出るし、カモシカもいるらしい。双方のためにちゃんと音は出して不本意な邂逅は防ぎながら歩くのだけれど、それでも会うときは会うし、Nさんは動物を見ることを楽しみの一つにもしていた。見せてもらった動画には走るクマが映っていて、その想像以上の近さに、なんで余裕で動画なんて撮っていられたんだと思わずにはいられなかった。この日も辺りに目を凝らしながら笹藪の広がる林を歩いていたのだけど、2人で歩いていることもあってかなかなか見つからない。いないですねえと言いかけたその時、Nさんのあっ!いた、カモシカだ!という小さな叫びが響いた。私にはまったくわからなくて、えっどこですかどこですかと、いるらしいカモシカに向かって藪をかき分けていくNさんに続く。元の道に戻れなくなったらどうしようという気持ちから、辺りの目印になりそうな木を気休め程度に覚えながら付いていって、これより進むと足場が、というギリギリのところでNさんは止まった。あそこ、と指さす先をじっと見てみると、確かにいた。枯れかけの笹の葉や、葉の落ちかけた木々にちょうど良く擬態するような薄い土色の動物。くりこまではついぞ見ることのできなかった、人生初のカモシカである。よく見つけたなあと感心しながらスマホのカメラで写真を撮る。もうちょっと、とNさんが近づくと、カモシカはそのまま逃げて行ってしまった。残念。
 あっちだこっちだと言いながら藪に足を取られ倒木につまづき、なんとか道に戻ったとき、斜面はかなり急だったのに、軽々と逃げていったカモシカを思い出した。私たちにとって森はもはや非日常の域に入ってしまっていて、丸腰で入っていくにはあまりに遠い。でも彼らはここに「住んで」いるのだ。もっと森が身近にあったころでさえ人間は基本入ることのなかった夜の森も、急な崖も、彼らにとっては日常で、暮らしだ。すごいですよね、と話しながら、私たちは笹藪の中、細い道を歩いて行った。

カモシカ