東北太平洋沿岸に走る全長1,025kmの長距離自然歩道、みちのく潮風トレイル。町を歩いて峠を越え、谷を下って海に出る。バックパックひとつとたくさんの人に支えられて歩いた去年の秋の二ヶ月を、残した写真と、一緒に歩いた地図をお供に連れて、一歩一歩思い出しながら書いていく。

しろい満月

 昨日はあの後すぐに寝た。今日歩く25kmに備えて早く寝なければという義務感が半分、もう半分は、寝ることしかやることがなかったから。たしか、午後6時くらいには目を閉じていたと思う。

 朝6時、まだ暗い時分にアラーム音で目が覚める。この時はまだ、日照時間を把握しようと寝起きに日の出の時間をメモしていた時期だ。毎日の日の出と日の入りの時刻を、10分刻みでスマホのメモ帳に書いていた。書き終えたところで、そういえば!と思い立ち衝立のすき間から空を見上げる。昨晩は何らかの満月で、私は旅に出る前、友人に一緒にお月見をしようとお誘いのハガキをもらっていたのだ。生憎その時にはもう出発の日時が決まっていてお月見には行けなかったのだけど、場所は違えどせめて同じ月を見ようと、まだ空に残っているはずの満月を探したのだ。行けなかった申し訳なさかもしれないし、本当は私も行きたかったんだよ、という言い訳のようなものかもしれない。けれど、うす青の空に張り付いたように残った、白い、真んまるの月が見せてくれたのは、ただそこに存在するだけ、それだけの美しさだった。

出発

 荷物をまとめ、外でストレッチをして出発する。この日は階上岳を登って下りて、後はほぼまっすぐ海岸沿いの舗装路を歩く予定だ。前日の夜、母から来たLINEで「階上から種市?歩ききれないでしょ」と言われ、そんなことない!とむきになっていたのもあり、なんだか勇み足だ。階上岳は標高739,6mのMCT(みちのく潮風トレイルの略称)最高峰の山だ。最高峰とはいえ傾斜は意外と緩く、この後続く海岸段丘の激しいアップダウンのルートに比べると全然楽な方なのだけれど、山を歩きなれていない私からすると地図を見ただけではそんなこと想像できなかった。初の一人登山、しかも時刻は午前七時前と、早朝とまではいかないまでもまだ日は昇りきっておらず、クマの活動時間と被っていてもおかしくない時間帯だった。気が引き締まることこの上ない状況である。

 クマよけに携帯ラジオをつけて入山したものの、どこか静謐な空気が漂う針葉樹の青い森を、ラジオでかき乱してしまうことに罪悪感がつきまとう。ラジオを消して歌を歌ってみたのだけれど、今度は自分の歌声が邪魔に感じてきてしまった。私は何もない音が聞きたいのだ。おそるおそる歌うのをやめ、耳を澄まし、木々の向こうに目を向ける。倒れた木、流れる水、苔、青と黒とみどりの水気をたっぷり含んだ山の下腹部の空気、音。深呼吸したくなるような冷たく凛とした、木のいいにおいがする。枯れ葉の敷かれたほそい道を踏みしめていく。ああ、こんな世界が見えるのかと思いながらも、やっぱり怖いのは変わらない。結局、少し歩いたらすぐラジオをつけてしまった。

アスファルトの道

 地図を頼りに、そのまま歩き続ける。始めのほうの傾斜は結構緩い。地図と山中の案内板を頼りに、水と木々の間を進む。二十分ほど歩いたところで一回車道を横切る。地図で見てみると、少し先のしるし平の駐車場まで続く道のようだ。入山した時からずっと続いていた緊張が、車の通る道があると知ってぶわっと緩むのを感じた。と同時に、少しの違和感。この時はまだ正体のわからなかったその違和感は、旅を続けているうちにわかることになる。

「なんで車道に出ただけで安心してしまったのか?」

 この違和感への答えがわかるのは、また、もう少し先のこと。

山登り

 しばらくすると、さっきの車道とつながるしるし平の駐車場に出る。東屋もあって、人の気配を感じられる場所にほっと一息、地図に到着時間を書き込む。地図によると、ここには午前6時五十分に着いたようだ。ここからがいよいよ登山、という感じだ。鎖場こそないが、今までのルートにはなかった傾斜にじりじりと体力が削られていく。なかでも急な斜面が二回ほどあり、きつくて、しんどくて、自分は何で山を登っているんだと自問せざるを得なかった。

 旅に出る前年、私は母の仕事についていき、日本の長距離自然歩道五十周年記念シンポジウムの基調講演の依頼の一環として、文化人類学者の今福龍太先生にお話を聞きに行ったことがある。そこで出たピークハントのお話に、今の自分の行動が引っかかった。ピークハントというのは、簡単に言うとその字の通り、登山の際頂上を目指すことを第一の目的とする考え方のことだ。私は今この山の頂上に着くためだけに、この苦しみを堪え歩を進めている。もし私がここで下山してしまったらこの登山は”失敗“になってしまうのだろうか?高校生活で感じたピークハントの連続のような、いつかの栄光のために今苦しんでいる自分を無視するような人生に疑問を持ちここまで来たのに、私が今やっていることはピークハントそのものなのではないか…。

 そんなことを考えながら、藪をかき分け、キツい斜面を這い上がっていく。一度頭にかかったモヤはなかなか晴れない。しかしこんな山の中で歩みを止めるわけにもいかず、くすぶる頭を抱えながら足を動かし続けた。一歩、一歩、頭の中が晴れなくても、五感は生きている。高くなってきた日に照らされ、森に色が浮き上がってくる、そのすき間からこもれ日が頭のてっぺんをつつく。起き出した森の、ざわついた空気。すると、さっきまであんなにしんどかったのに、だんだん歩くことそれ自体が楽しくなってきた。 歩を進める、地面を踏みしめるこの感覚が、純粋に楽しい。人間というのは単純なもので、気分が上がると、考え方も変わってくる。生きていく上で、未来のことを一ミリも考えないでいるのは不可能だ。でも、未来というのは今の自分とかけ離れた偶像ではない、自分のいる今ここ、日々の連続の先にあるものだ。感じる自分、いろんなものを見て、聞いて、やってみて、それを感じる自分自身を主体に置けば、実感の伴わない未来のために自分を消費し続ける人生にはならないで済むのではないか?人生山あり谷ありの中、谷のところの感覚を“悪いもの”として切り捨てなくて済むのではないか?私はこの道を歩きたい。歩きながらいろんなものを感じたい。そのために山に登るし、明日の宿と到着地を決める。わかりづらいかもしれないけど、宿に着くために歩くんじゃなくて、あくまで主体は歩き続ける今の自分にある。歩くために宿を決めるのだ。結局人生は”今”の連続な訳で、人生のできるだけ多くの場所で、そこにいる自分が納得できるような人生にしたい。この登山も、目的地は頂上じゃなくてその各々の標高にいる自分であって、その通り道が山の形をしているに過ぎない。なんならその山を下山して、まわりみちをしたっていい。そこを選んで歩いているのは全部自分だ。積み重なって私を作っていく大事な感覚だ。誰かの決めたピークを求めるから、ゼロと百しかなくなってしまう。目指す場所は、この一歩一歩でいいのだ。

本ルートと合流して初めて気付いたのだけれど、たぶんこのとき、獣道にまよいこんでしまっていた。