東北太平洋沿岸に走る全長1,025kmの長距離自然歩道、みちのく潮風トレイル。町を歩いて峠を越え、谷を下って海に出る。バックパックひとつとたくさんの人に支えられて歩いた2020年秋の二ヶ月を、残した写真と、一緒に歩いた地図をお供に連れて、一歩一歩思い出しながら書いていく。

迂回路

 小袖海女センターを後にし、急坂を登り切って数分住宅街を歩く。この先、本来であれば「ここより難路」と地図に書かれた長い自然歩道を歩くルートになっているのだけれど、私が歩いたときは前年の台風の影響で少し内陸に入った舗装路に迂回しなくてはいけなかった。畑と家が並ぶ道路をまっすぐ歩いていく。旅の間の自分ルールで、こういう人通りが少ないところですれ違ったり、目が合ったりした人には挨拶をすることに決めていたのだが、この時もちょうど、畑仕事をしているおばあさんとふと目が合った。こんにちは!とあいさつすると、なにしてるのー、と声が返ってくる。いつものようにトレイルを歩いていることを説明すると、おばあさんはおうちの方を指さし、ジュースがあったと思うから、ちょっと待ってて、と言って取りに行ってくれた。すごい、うれしい。私は基本一人で歩いているので、だれかとお話しできるというだけでかなりうれしいのだけれど、こうやって行きずりの見知らぬ人間のことを応援して、何かしようとしてくれる、そのあたたかさには毎回じ~んとしてしまうのだ。それは、見返りなど端からこれっぽちも考えていない、幼い頃祖父母の家で味わったような、少し照れくさいむずついた心地よさに似ている気がする。しばらくして帰ってきたおばあさんは、ごめんなさいね、ジュースは切れてしまっていたのだけど、お茶ならあったから持っていってちょうだいと500mlペットボトル2本分のお茶をくれた。2本で1kg。存在感を増した荷物がずんと双肩にのしかかる。しかしこのやさしさの重みが、私のこれからの旅路の支えになってくれるだろう。ジュースは定期の生協さんで来るらしかった。畑仕事を中断してまでおしゃべりしてくれたこと、お茶をくれたことにお礼をして、暑いですから体調に気を付けて、と言ってお別れした。
 するとその直後、後ろから真っ赤なスポーツカーがこっちに向かって近づいてきた。

 なんだろうと見ていると、私の前でピタッと止まる。実はこの車とはおばあさんと立ち話をする前に会っていて、歩いている事情を一通り話し、ちょっと前に別れたばかりなのだ。どこかでぐるっと回ってきたのだろうか、おばあさんと2人、なにが起こるのだろうと見ていると、少し前に顔を合わせたおじさんが窓を下ろして一言。

「乗りな!」

 え、いやいやそんな、歩いていきますとお断りするも、行き先が同じだから乗せてやると言って聞かない。迂回路とはいえ自分の足で歩きたいという気持ちと、危機管理的な意味でのヒッチハイクに対する抵抗感。しばらく押し問答をしていたのだが、最後のほうはもう乗りな!しか言わなくなってしまった。うーん、気持ちはありがたいのだけど…と渋っていると、さっきのおばあさんがこちらを見ているのに気付いた。人が見ているところで犯罪はしないだろう、これも何かの縁、野原(階上岳に登る前日立ち寄った喫茶店)で聞いた話も思い出し、人とのつながりはできるだけ大事にしていきたいという考えに至って車に乗ることにした。

 おじさんには、私と同じくらいの孫がいるらしい。車に乗らなければ8kgの荷を背負って歩いていただろう道を横目に見ながら、私は荷物を膝に抱いて助手席で話を聞いていた。もうここまで来たら会話を楽しまなきゃ損だ。それとなく東北にも知り合いがいることを会話の中でほのめかして、蒸発しても気づかれない人間ではないことを示す。曲とか何聞くの、と聞かれたから、ユーミンとかですかね、と言うと(ちなみに今は星野源さんがとても好きだ)、時代じゃないよね?知ってるんだと驚かれた。そう言われてみると、今でこそ誰でもアップルミュージックやユーチューブですぐ昔の曲や名作を追うことができるけど、昔はそんな便利で手軽な情報媒体なかったのか、と気づかされる。だとしたら、現代社会は昔ほど一世を風靡すると言われるような、大きな流行は起こりづらくなっているのではないかと思えてくる。流行り廃りはもちろんあるが、手に入れることのできる情報の母数がそもそも昔の比ではないくらい大きいのだ。たとえビッグネームが現れたとしても、知名度の高い人間は他にもたくさんいる。一等星が強烈な光を放っていた時は過ぎ去り、いまや星の光はかすみ、街のネオンがきらめく世の中だ。まあ、私がただ流行りに疎いだけかもしれないけど…今昔を知っている方がいらしたら、教えてくれると嬉しいです。

今日は人とよく会う

 そうこうしている間に、あっという間にその日の目的地だった陸中野田の道の駅に着いてしまった。おじさんは道の駅にマツタケを見に行く用事があったらしく、乗せてくださりありがとうございましたとお礼を言って、そこで別れた。結果論にはなってしまうが、初めの方こそ不信感があったものの、重い荷物に悲鳴を上げていた肩を休ませることもできたし、人と話すこともできたし、良かったと思う。問題は今日の予定だ。一日かけて到着するはずだったところにほんの十数分で着いてしまった。この日は駅の近くの公園でテントを張って泊まろうと思っていたのだけれど、まだ日は高い。テントを張るには早すぎる。とりあえず昼ご飯を何とかしようと歩いていると、おーい、ちょっと、と車道を挟んだ向こう側から声が聞こえた。誰に向かって言っているのだろうと周りを見渡すも、近くに歩いている人は私のほかにいない。きょろきょろとわざとらしく首を振って、もし呼ばれているのが自分じゃなかった時用の、自意識過剰の予防線を張る。それでもそこの、そこの君だよと指をさしてくるので、ようやく確信が持てた。しかし見覚えのない人だな。私なにかしちゃったのかなと考えを巡らせることコンマ2秒。もしかしてさっきのヒッチハイク?もしあの人があれを見咎めて声をかけてきたお巡りさんなら目の前で交通違反はしてはいけないと思い、少し遠回りしてきちんと横断歩道を渡って向こうの歩道に渡った。

 近づいて声が届く場所になるとその人は開口一番に、Aさん(私の母)の娘さんでしょ!と言った。なぜそれを。見覚えがない人だけれど、もしかしてどこかで会っていたのかしらと記憶を探っていると、その靴で一目でわかったよ!と言われた。ああ、なるほど。私はその時左右の色が違う靴を履いていたのだけど、母がその左右逆バージョンのものを履いていたのだ。事の始まりは数年前、母がフリーマーケットで左右の色が違う靴を買ってきたことがきっかけだった。もとはそれぞれ別の2足の靴だったそうなのだが、訳あって左右違う色で組み合わせて売っていたらしい。そこから母の中で同じ型の靴を色違いで2足買い、片方ずつ交換して左右違う色で履くのが定番になってしまった。私は今回、そうやって組み合わされた母の靴の片割れを履いてきていたので、もともと母と仕事で面識のあったその人は私の靴を見て一発でわかった、という訳だ。左右の靴の色が違う人なんてめったにいない上、あの時期に大きなバックパックを背負い、トレイルルート上である路上を一人で歩いている女の子なんてきっと一人しかいなかっただろう。説明が長くなってしまった。
 なるほど、母がいつもお世話になってますと挨拶をすると、この道の駅のソフトクリームがおいしいのだと言っておごってくれようとしたのだけれど、なんとまだショップが開いていない。機械が作動するのにあと30分はかかるらしく、さすがに待てないなあと言っていると、海鮮ラーメンもおいしいから!と言って2階に案内してくださり、なんとそのままラーメンをおごってもらってしまった。その人はこれからお仕事があるそうで、お金を払っていなくなってしまったのだが、怒涛の勢いで追いついていなかった嬉しさが、一人ラーメンをすすっている間にじわじわと腹を満たしていくのを感じた。あー、うれしいなあ。誰かになにかうれしいことをしてもらった後は、視界の一部をスクリーンにして、その時の思い出を繰り返し上映する。そういう時間は大体一人で、さっきのことが過去に遠ざかっていくのが寂しい、あの嬉しさを忘れてしまうのが惜しいと、つい何度も反復してしまうのだ。気が付いたら、ラーメンはずいぶん減っていた。色々あったけれど、あのとき赤い車のおじさんに出会わなければこの出会いもなかったのかと思うと、人生はいろんな偶然から成り立っているのだなあとしみじみ、何もかも奇跡のように感じられるのだ。僕らの人生、まだまだ何が起こるかわからないぞ。

 さて、私にはしなくてはいけないことがあった。ぽっかり空いてしまった午後の予定を立てることだ。予定より数時間早く、想定外のラーメンをすする真昼間。予定とはずいぶん違う状態になってしまったけれど、運のいいことにここから7km先に明日泊まる予定だった玉川野営場があるのだ。7kmなら2時間と少し、ここから野営場までは舗装路しかないから多めに見積もっても2時間半で着く。よし、と気合を入れ、道の駅で少しお菓子の補給をしてから、いっぱいになった腹と共に駅を後にした。海鮮ラーメンなるものはこの時初めて食べたのだけれど、さっぱりとした潮の味は、今でもまだ覚えている。