東北太平洋沿岸に走る全長1,025kmの長距離自然歩道、みちのく潮風トレイル。町を歩いて峠を越え、谷を下って海に出る。バックパックひとつとたくさんの人に支えられて歩いた去年の秋の二ヶ月を、残した写真と、一緒に歩いた地図をお供に連れて、一歩一歩思い出しながら書いていく。

青森の海

 灯台からまた少し歩くと、岩っぽい、こぶしサイズの石が転がっている小さな海岸に出る。足を捻らないように気を付けながら歩いていると、足元のあたり、海藻に絡まって鮮やかなオレンジ色のものがコロンと転がっているのを見つけた。ウキか何かの実かなと思って近づいてみたら、なんとウキでも果実でもない、小さなホヤが落ちていた。よく見るとあちらにもこちらにも、たくさんの海藻に絡まったホヤが散乱している。関東では日常的に見ることすらない食べ物が、こんなに無造作に落ちているとは、これが青森の海かと衝撃を受けたのも束の間、地元に住むCさんもなにこれー!と驚いていたので、これが日常という訳でもなさそうだ。Cさん曰く、地引網に引っかかって海藻と一緒に放られたのではないかとのこと。なるほど。そうだとしても、漁が日常的に行われる海じゃなかったら、ホヤが棲んでいる海じゃなかったらこんな光景は見られないものだと思う。東北の海を感じたワンシーンだった。

ホヤ

 海の先、舗装路に出て少し歩くと着く葦毛崎の展望台が見えてくる。展望台の足元においしいアイス屋さんがあると言って、Cさんがマンゴーソフトを買ってくれた。展望台に上がりアイスを食べながら眺める海は広くて、こんなに贅沢をしていいのかと罪悪感のようなものまで感じてしまう。私は何をしているんだろうか、何かもっと、やらなくてはいけないことがあるんじゃないか…海風に乗ってふと心に去来した思いは旅の始まりには不釣り合いな気がして、とりあえずアイスを食べることに勤むことにする。ラストスパート、アイスが溶け始めた頃に、後ろでを写真を撮っていた外国人の人が話しかけてきた。聞くと数年前このあたりに移住してきたそうで、私のサロモンのスニーカーを見て、それ、フランスのメーカーだね?僕は、フランス人だけど、アディダス、と言って、自分の靴を指さしながら笑いかけてくれたのを覚えている。今日は写真を撮りに車でここまで来たそうだ。私の左右で色の違う靴を見て笑ったり、少しだけトレイルのことを話したり、気が付けば、もともと漠としてあやふやだった不安などは、すっかりどこかへ鳴りを潜めてしまっていた。きっと人はいろんなことをこうやってごまかして、その適当さのおかげで前に進んでいけるのだろうと思う。

 展望台を越えた先には、大きく白い砂浜が広がる。みちのく潮風トレイルの中では一番大きい砂浜になるそうだ。歩く前の二か月半、インターン生として過ごしたのは、海からは程遠い、沢と森に囲まれた高原だった。それを経て感じる海のにおいと一面に広がる水平線は、私の心を躍らせるのには十分すぎるくらいだ。大きな水がただゆっくり寄せては返すのを見つめながら、鳴き砂の砂浜で足を擦る。そうやって陸地と海の境を歩いていると、波が往復するたびに、刻一刻と海岸線は形を変えているのだなあと思えてくる。地図で見たら不動の大地も毎秒形を変えていて、そのはざまにひそむ小さなふるえを、ここを歩く私たちは等身大の時間とサイズ感で感じているのだ。人間が生まれてまず手に入れる交通手段は歩くことだから、歩くという行為には無理がない。そういう速さで見えるものには、その時の自分が無理なく見られるくらいの情報しか盛り込まれていなくて、一緒にいて気が楽だ。広がる海をずっと見ている。砂浜に打ち上げられたワカメをじっと見ている。トレイルは、そういう場所でもあるのかもしれない。

貝殻たち

松並木、ひろい芝生

 防風のため植えられた松はこの先何度も見ることになるけれど、この道は遊歩道として整備されていたからだろうか、ここほど多くの人が歩いている松並木はなかったと思う。2km半ほどの遊歩道で、ちょっとした運動やお散歩にもちょうど良さそうだ。黒い木肌の間から青い海がちらちらと覗く。松の葉越しの細切れになった木漏れ日や海からの反射光が並木の影を気持ちよく散らす中、仲良くお話ししながら歩くおばさま方や、遠足だろうか、すれ違う中学生の行列に何度も挨拶を返しながら歩く。先程会ったトレランの人に再会したのもここだ。もう大久喜まで走り切って、もう復路を走っているらしい。速い。歩く風景と車からの風景が違うように、走っているから感じられるものと歩いているから見られるものも、またそれぞれ違うのだろうと思う。私は走ろうとは思わないけれど、走る速度では一体どんなものが見えるのだろうか。私たちはしゃがんで道端に生えるきのこを見たり、防風林に松が選ばれる訳を考えてみたり、のんびり進むことにした。今日は少ししか歩かないしね。そうこうしているうちに、気づけばこの日の宿泊地、種差のキャンプ場についていた。

 種差海岸は一面に芝生の広がる海岸で、今でこそ人の手が入っているけれど、もともとは馬の放牧をしていたことがこの広い芝生の由来だ。馬は芝を食べないから、他の雑草だけがなくなって必然的に芝生が形成されていくらしい。私はもともとパンフレットで見たり人から聞いたりしてこの場所のことを知っていたのだけれど、松林を抜け、開けた視界に芝生と海が目に飛び込んできたときにはにわかには信じがたいものを見た気分だった。画面の中にしか存在していなかった「海と芝生」という風景が、実際に眼前に広がっている!そしてそれと同時に、気が抜けた、安心した、といった気持ちがぐわーっとからだ中を駆け巡っていくのを感じた。今思うとかなり気を張っていたのだろう。今まで一日に歩いたことのない17kmという長距離、8㎏超の荷物を持って歩くこと、そしてそれがこの日を境にずっと続くということ、そういうものが私の体を風船のように膨らませて、パンパンに張りつめたこの日の私の輪郭をとっていたのだと思う。まあ何はともあれ目的地に着いたということで、まずは種差海岸インフォメーションセンターに行ってテントを張る許可を得る。母のことを話すと知り合いの娘さんということでお昼に誘っていただき、お言葉に甘えてその日のお昼はそこでとることになった。週末のイベントの予行練習でバーベキューをしていたのだそう。歩き疲れた体に沁みる野菜やお肉たちはすごくおいしかったし、なによりこうやって初日から色んな人と少しずつ出会っていけるのが本当に嬉しかった。Cさんとはここでお別れ。今日初めて会ったはずなのに、お別れがすごく寂しかった。たかが17km、されど17km。旅の初日の不安感は、一人で歩いていたらもっと大きいものだったかもしれない。この日一日、一緒に楽しく歩いてくれたCさん、本当にありがとうございました。

種差海岸

【2日目、あともう一回続きます】