東北太平洋沿岸に走る全長1,025kmの長距離自然歩道、みちのく潮風トレイル。町を歩いて峠を越え、谷を下って海に出る。バックパックひとつとたくさんの人に支えられて歩いた2020年秋の二ヶ月を、残した写真と、一緒に歩いた地図をお供に連れて、一歩一歩思い出しながら書いていく。

宮古に向けて出発! 

 くろさき荘に来て3日目。体調は戻ったものの、外はあいにくの雨だった。特にすることもなく、今日もまた漫然と時間を過ごす日になるかと思ったが、この日は前日より腰が軽かった。ルートの少し先に浄土ヶ浜ビジターセンターというところがあるのだけれど、以前からそこに行って情報収集をして来たら、と言われていたことを思い出し、そこに向かうことに決めた。連日の早起きで染みついた習慣から6時に起床し、朝食後にフロントで浄土ヶ浜までの行き方を調べる。バスと電車だけで行くには、ここから普代駅に行くバスの時点で1日に2本しかないため、あちらへの滞在時間が十分に取れなさそうだった。どうしようか、と悩んでいると、宿の方から駅まで車で送っていこうかというご提案が。なんと!ありがたい限りである。
 部屋に戻って準備をし、早めに終わってしまったので時間になるまでまただらける。ぼーっと畳の上に座って、あと少し、あと少しとぐずついていたらフロントでの待ち合わせ時間ギリギリになってしまった。急いで部屋から飛び出し、そのまま車に飛び乗る。駅まで車で20分ほど。走り始めた車にほっと一息つく。車や電車に乗っている間は、自分がいくら焦ろうと進む速さは変わらない。車の中には、そういう「自分にはもうどうしようもないんだ」というある種の言い訳のような安心感がある気がする。時間がないのは変わりないのだけど!
 普代駅に向かっている間、運転をしてくれたSさんと色んなお話しをした。そこでは、Sさんが昔私の家の近くに住んでいたことが判明したり、その当時のお話を聞いてみたり、かと思うと、私が心を病んで一人旅に出たのではないかと疑われていたことも判明したり…。急いでいるにもかかわらず、このぬるい時間ができるだけ続けばな、と、私はちょっぴり思った。
 普代駅前の駐車場に着くと、もう駅に電車が到着していた。まずい!と二人してホームに走り、駅のお姉さんに「すみません急いでいるので今この電車に乗らなきゃいけなくて!」と早口でまくしたて、Sさんは早く行きな!電車行っちゃうよ!と、お金は電車の中で払うよう教えてくれた(普代駅では切符と整理券二種類の支払い方法があったのだ)。待ってくださーい!とジェスチャーしながら電車に飛び乗り、ワンマン電車の乗り方が全く分からない私の代わりに、Sさんが車掌さんに説明をして送り出してくれる。Sさん、あの時は本当にありがとうございました。息を切らしながらも一緒に走ってくれたSさんとのあの時間には、何らかの青春のような、傘を忘れて友達と一緒にずぶぬれで走った時のような、そんな空気が確かにあったと、勝手に思っています。

行きの電車の中のつり革 魚の骨かと思っていたが、調べたところW杯応援のためのラグビーボールらしい

浄土ヶ浜ビジターセンター

 電車に揺られ息を整えながら、外の曇り空とは一転明るい車内をぐるりと見渡す。短い車両と、ドアの上に貼られたワンマン電車の乗り方の説明書き。私の座った席の向かいには個室のトイレ、左前には支払機と整理券の出る箱があったのだけれど、私は切符なしにワンマン電車で乗るのは初めてで、整理券は取るものなのか、取っていいものなのかと迷っているうちに整理券の出口がしまってしまった。カシャンというあの音は今でも耳に残っている。整理券って取っておかなかったらどうなってしまうんだろうと、急に不安が背を伝った。いやいや、乗った駅をちゃんと覚えておけば何とかなる、少なくとも無銭乗車は避けられるだろうと焦る心を落ち着かせ、改めてしっかりと椅子に腰かけなおした。が、心配性の脳みそがそれで落ち着いてくれるはずもなく。宮古に着くまでの一時間、結局私はずっとソワソワしていた。
 車掌室のドアの上、進行方向の壁にはデジタルの料金表が設置してある。この日乗っていたのは、三鉄と略される三陸海岸を走る三陸鉄道だ。海岸地域を走る、ということで、自然とトレイルのコースとも重なるところが多い鉄道なのだけれど、料金表の始まりのところに久慈の名前を見た時は驚いた。くろさき荘の前で見た看板に感じたものと同じような感覚だ。私からすると久慈はもう何日も前に出発した遠く離れたところなのに、今目の前に今いる場所と一つの連続性を保って現れている。感覚的にはもはや「全く違う場所」に来ているから、こんなに遠いのに、あの場所のことを知っているんですか!と言いたくなってしまった。これも交通手段の違いからくる尺度の違いなのだと思う。歩く速度で見えるものは意外と歩いているその時には気が付かなくて、こうやって走る速度で気づいたり、止まった時に気付いたりするのだ。

 宮古に着いてバスに乗り換え、10分と少しで浄土ヶ浜ビジターセンターに到着する。ずっと気になっていた整理券問題は乗車駅を覚えていたから何とかなった。建物に入ってすぐ、小さいながらも設けられたトレイルのコーナーを嬉しく思っていると、受付の方がAさんの娘さんですか?と出てきてくれた(母がトレイル関係の仕事をしているのだ。そして私がトレイルを歩いていることは、沿線上の色んな人に知られていた)。普段と違ってこの日はハイカーの目印である大きなバックパックは背負っていなかったのに、なぜトレイルを歩いているとわかったのだろうと思っていると、募金箱に募金をしたから、とのこと。募金箱というのはさっき見ていたトレイルコーナーに置いてあったもので、そのとき10円募金したのだった。トレイルを歩くことができるのはそれぞれの地域にかかわる人たちのおかげ、そこを歩かせてもらっている身として、少しでも力になれたらという心ばかりの10円である。まだまだ認知度が高いとは言えないトレイルに、若者がひとりで募金をした姿が印象的だったのかもしれないな、と思った。
 この日ビジターセンターに聞きに来たのは、宮古の先にある重茂半島と船越半島という2つの半島をぐるりと回るコースについてだった。というのも、この2つの半島はそれぞれ1日では回り切れない距離を持ちながら、その間に補給ポイントがほぼないという、ちょっと工夫して歩かないといけないルートなのだ。もちろんルート上に宿もないわけで、どこにテントを張れそうか、周るのにどれくらいかかるかなどを教えてもらった。ついでに、くろさき荘の先から自然歩道が増えてくるからクマよけのスプレーについても教えてもらったのだけれど、色々考えた結果ご遠慮させてもらった。本州に生息するクマは「基本」温厚。自ら音を出して人間の存在を知らせたり、食べ物のにおいに注意しておいたりすればまず襲われることはない。住処にお邪魔させてもらっている身分で、わざわざ重いスプレー缶で武装することは気が引けたのだ。ルートの点検や整備でそこまで注意することが難しい時は必要だと思うけれど、私はただ歩いているだけ。あちらとこちらと、過剰な恐怖心で分断したくないなあ、となんとなく思ったのだ。

まさかの再会

 あと少ししたら階下にいる他の保護官の方も時間が空くと聞いたので、それまで館内をプラプラと見て回る。浄土ヶ浜に行くこともできたのだけれど、それは数日後、歩いてここまで来た時に取っておきたかったからやめておいた。1階の展示はほぼ見終わり、他の階に向かうことにする。階段を下りて下の階の角を曲がると、少し遠く目線の先、なんだか見慣れたシルエットが目に入った。あの大きなバックパックとサンダルは…Nさんではないか!Nさんとは、私とほぼ同時期にみちのくを歩いていたハイカーさんで、久慈で別れたきりになっていた。すると、Nさんもこちらに気が付いたようで、互いにどうしてここに!と驚く。考えてみれば、進むペース的にNさんがここまで来ていてもおかしくはない。問題は、まだ黒崎にいるはずなのに90kmも先の宮古にひょっこり現れた私の方だ。よく似た違う人かと思ったよ、と言うNさんは、宮古でゼロデイ(全く歩かない日)を取る予定らしく、この後宮古の町まで降りて宿を探すそうだ。今さっきビジターセンターに到着して、ここで保護官の人と話していたそう。すごい偶然ですね、と言って、折角だからこの後一緒にお昼を食べることにした。Nさんはもう少し施設の人と話すということでいったん別れ、私はその間展示を見ることにする。大きなスクリーンにはトレイルの動画が流れていて、その前にぽつりぽつりと座って見てくれている人がいて嬉しかった。他の展示なども眺めながらNさんを待って、二人でレストハウスに向かった。
 レストハウスは浄土ヶ浜の海岸の方にあるから、ついさっき「次来た時にとっておく」と決めた海岸を結局歩くことになってしまったけれど、まあいいかと思う。レストハウスに着き、瓶ドンを2つ頼んで、互いに今までの道のりを話した。瓶ドンというのは、牛乳瓶に詰められて出てくる海鮮を、自分でご飯にかけて食べる海鮮丼だ。ご飯を食べながらこれから歩くところについてアドバイスをもらったり、迷いやすいポイントを教えてもらったりする。トレイル上の情報は、Facebookにハイカー同士のコミュニティグループがあるからそこでも集められるけれど、やっぱり人の話を聞くのはおもしろい。
 バスの時間も迫っていたから、お昼を食べ終わった後は少し早足で来た道を戻る。アイスが売っているところがあって、久しぶりに食べたいと思ったけれど時間が押していて断念した。ビジターセンターのバス停で、私はバスに、Nさんはトレイルのルートに向かい、またどこかで会ったら、と別れる。思いがけない再会に、歩き終わった後の土産話がまた増えたと嬉しい気分になった。ほんの少しとはいえ浄土ヶ浜のルートを先に歩いてしまったことは若干もったいなく思われたけれど、実はこの体験が、後にもう一度この海を見た時の衝撃をより強くする一因になるのだ。まあそれはまた、その時に後述しようと思う。

瓶ドン おいしかった!

 バスに揺られ約20分。宮古駅に到着して、電車を待つ。近づいてくる走行音に、お、来た来たと思っていると、車体があらわになるにつれ、む?と目を凝らすことになる。来た時とは違う、青い車体に、なんだかレトロな雰囲気。特別車両だ!偶然の出会いに心を躍らせながら乗り込むと、外装だけではなく中の椅子や装飾までレトロ調になっていた。今日は運がいいな、とホクホクしながら、4人席の一つに腰かける。私の席の左手には中学生だろうか、男の子が4人座って、電車が走り出す頃にはすっかりテーブルの上にカードを広げてゲームをしていた。特別な内装には目もくれずゲームに熱中する姿はほほえましいものである。子供のこういう無邪気にはしゃぐやり取りというものはやっぱりどこかずっと憧れがあって、まぶしい。こうやってほほえましさを感じている時点で、私はもはや子供のフェーズを抜けようとしているということなのだろうか…。

レトロ風の三鉄特別車両
内装もすてき 写真がブレているのが残念

普代駅での出会い

 普代駅に到着すると、同じ電車から一緒に二人組の男性が降りてきた。バックパックを背負っていたのはもちろん、何より目に付いたのが、そこに刺さっている銀色の傘だ。普通の折り畳み傘より軽く日傘にもなるこの傘は、私の知り合いのハイカーさんたちが持っているのは見たことがあるものの、他で見かけたことはほぼない。トレイルを歩いているのかも、と気になりながらも、その時は勇気が出ず声をかけられなかった。しかし運のいいことに、待ち合わせをしていたSさんとその二人組が駅の出口で話していてくれた。これ幸いと声をかけてみると、やはりトレイルを歩いてきた人だった。その人はもうトレイルを全部歩いたことがあるそうで、ここからもう少し先、明戸の手掘りのトンネルあたりのルートがどうしても好きで、今日はそこに後輩を連れて歩いてきた帰りなのだそうだ。聞くとあちらも私が持っていた銀色の傘が気になっていたようで、でもバックパックを背負っていないからハイカーかどうかはかりかねていたとのこと。今日は宮古の方に情報収集に行っていたから身軽なだけで、今通しでトレイルを歩いているのだと話すと、何がきっかけで歩いたのか聞かれた。トレイルのことを知っていたのは母がトレイルの仕事をしているからで…と話すと、え、もしかしてAさん(母)の娘さん?!と言うではないか。そうです!と言って話が弾んでいくうちに、もうここに書いたのはずいぶん前なのだけれど、階上岳の山小屋にワサビと醤油のトレイルマジックを施していったのはなんとこの人だったということが分かったのだ。話していくと、Nさんにタバコを差し入れ、禁煙を断念させたのもこの人だと判明する。何たる偶然。あのワサビ、まだ持ってますよ、今日も宮古でNさんと会ったんですと言うと驚いていた。すごい偶然というのはあるものだ。昼にNさんと会ったことも含め、1日に2回もこんな出会いをするとは思いもしなかった。この先のコースは大変だけどすごくおもしろいから、楽しんでね!という言葉をもらって、手を振りながらお別れした。
 こんなことあるんですね、と車に乗り込んでSさんに言うと、返事と同時にはい、と言って何かを渡してくれた。おやきだ。えっ、いいんですか!と言うと無言でうなずくSさん。見ると駅前ではなにやら催し物が開催されていて、そこの出店で買ってきてくれたのだろうとわかる。ありがとうございます、と言って口に含んだおやきはまだあたたかくて、ふと顔を上げると、ルームミラー越しに同じおやきをほおばるSさんが見えた。私のために、わざわざ2つおやきを注文してくれるSさんを想像して、あたたかくて、うれしくて、どうしようもなく笑みが漏れた。2度目になるけれど、Sさん、あのときは本当にありがとうございました。

 色んなことがあった1日だった。もし前日に宮古に行っていたらなかったであろう出会いがふたつ、バスでひとり駅に向かっていたらなかった時間が2回、人生における偶然を、タイミングというものの気まぐれさを感じるたびに気持ちが軽くなっていく。一時的なものではなくて、人生全体の行動の重さがいい意味で無くなっていく気がする。何かをすればするだけ多くの物に出会うし、逆に何かをしないことで出会うものもある。常に完璧であることが最善というわけでもない、というのはいいなと思う。人生において無駄な時間というものはない、というのは少し違う気がして、無駄な時間も悪いもんじゃないよね、と言う方がぴったりくる。そっちの方が、お気楽で、何とかなるよという、大事な柔らかさが詰まっている気がした。

浄土ヶ浜