東北太平洋沿岸に走る全長1,025kmの長距離自然歩道、みちのく潮風トレイル。町を歩いて峠を越え、谷を下って海に出る。バックパックひとつとたくさんの人に支えられて歩いた2020年秋の二ヶ月を、残した写真と、一緒に歩いた地図をお供に連れて、一歩一歩思い出しながら書いていく。

お久しぶりです!去年の9月から休載をさせていただいておりましたが、今月から月一で再開していこうと思います。前回からかなり間が空いてしまったので、忘れちゃったよ、という方がほとんどだと思いますが…。2年半前(もうそんなに?!)の私はこの時生理で、いったん歩くのを中断してくろさき荘という国民宿舎に宿泊していました。今回は、そのくろさき荘での思い出を書いていこうと思います。

くろさき荘での一日

 この日は特段何もせず、パッとしない体調にかまけ一日ダラダラと過ごした日だった。日中あまりに時間が長く感じられて、近くの展望所まで足を運び、なんとなく自分の靴のスケッチなどをしてみる。展望所には黒崎灯台が立っていて、遠く太平洋を眺めていた。秋のさっぱりとした青空の下、白い灯台はくっきりと映えて美しかったが、あまりにそのままで単調にも感じられた。ぼーっとしていると呼気に虫が群がってきて、耐えかねてすぐ帰った。
 行きがけにカモシカが見られたのは良かったかもしれない。前見た時は遠くからしか見られなかったけれど、今回はかなり近づいたのに逃げず、あまりに堂々としているからこっちの方が気圧されてしまうくらいだった。逃げも隠れもせずにただこちらを見つめる真っ黒なまん丸い目は微動だにしない。一体何を考えているのかわからない底なしの宇宙のようなものを感じて、見ているこっちが不安になる。時間にして1分くらいだろうか、互いに動かずじっと見つめあっていたのだが、あちらの方が飽きたようで、そのまま静かに森に戻っていった。

カモシカ

 部屋に戻った後も、「折角の休みなのだから普段行けないところまで足を延ばしてみよう」なんて気にもなれず、あっという間に時間が過ぎていく。一人旅の悪いところは、こういう時、動かないぬるま湯に浸ることを軽率に許してしまうところだ。私の部屋はトイレがなく、部屋の外の共用の物を使う形になっていたのだけれど、そこに行くことすら面倒だった。特に自室から行きづらい場所にあるという訳でもなく、なんなら部屋を出てすぐ正面にあったのだけれど、立ち上がり、靴を履き、扉を開けて一応鍵も閉め、そうしてやっとトイレに辿り着くというのが手間に思えてしまってしょうがなかった。しかも尿意というものは不思議な性質を持っているもので、本当にギリギリになるまでは意外と主張してこないのである。渋って渋って、限界点まで到達したところで爆発的に膀胱に訴えかけてくるものだから、毎度大慌てでトイレに駆け込むことになるのだ。

 そんなこんなで、気が付けば部屋は夕暮れの薄闇に沈み始めていた。ああ、折角ここまで来たのに一日なにもしなかったなあと、焦燥に包まれた罪悪感を感じる。そんなとき、暗くなった部屋で唯一色を持った窓が、吸い寄せるように私の視線を引いた。窓の向こう、海の上に広がった空の右から左までいっぱいに、帯のように桃色の夕焼けが広がっていた。今すぐこの部屋から出て、この空の下に立たなければいけない。今日一日の怠惰な時間も今夕焼けを見に走ったら全部帳消しになるはずだという確信、逆に今行かないと、一生後悔するとまで思った。急いで靴を履き、焦る手でガチャガチャと鍵を閉め、部屋を飛び出る。夕焼けの時間は短いのだ、刻一刻と変化してしまうこの色は、もう少ししたら行くよ、なんて言っていたらあっという間に消えてしまう。一人旅の良いところは、こういう時に枷になるものがないことだ。すべては自分次第である。
 走って灯台まで戻り太陽を探すが、生い茂った松林に阻まれ、開けた空を見ることはできなかった。しかし、鮮やかなピンクが淡い紫に沈む中、黒い松林に、不思議な白い光がまだら模様を作っているのに気が付いた。刻々と変わるマーブルの光。その先には、黒崎灯台が立っていた。昼間はただ静かに泰然と海を眺めていたあの白い塔は、今むくむくと起きあがり、海へ、林へ、次々と灯りを投げこんでいく。今から夜通し、この灯りを海に投じ続けるのだ。昼の顔から夜の顔へ、日々繰り返されるルーティーン。昼と夜をつなぐ一瞬の一幕は、その中にいる自分を許すのには十二分に素敵なものだった。

全国の「恋する灯台」にも認定されている黒崎灯台
くろさき荘2日目の夕ご飯