このレポートは、「日本の廃道」2005年9月号、10月号、11月号に掲載した「特濃!廃道あるき」をリライトしたものです。
当記事は廃線探索をテーマにしており、不用意に真似をした場合、あなたの生命に危険が及ぶ可能性があります。当記事を参考にあなたが廃道へ赴き、いかなる損害を受けた場合も、作者(マイみちスト)およびみちこ編集室・道の駅連絡会は責を負いません。
所在地 岩手県八幡平市(市道 藤七温泉線)
探索日 平成17(2005)年7月24日
Q地点 橋の左岸の廃小屋
2005年7月24日10:51
現在、本来探索する予定だった市道藤七温泉線(旧県道)のルートを少し外れて、北ノ又川の渡河地点で発見した廃アーチ橋の探索を行っている。我々はアーチ橋に続いて、左岸に立つ一棟の廃小屋を見つけた。橋を背にして小屋を撮した写真の右半分、丈余の笹藪の中に、橋に通じる道が埋もれている。
小屋の外観は至ってシンプルな平家切妻造りで、屋根や壁はトタン張りだ。建てられてからどれくらい経過しているのか分からないが、意外にしっかりした建物であることは、壁にある大きな窓のガラスが全く割れていない(立て付けが大きく歪むと桟が圧迫されて割れる)ことから窺える。外観的には健在そうな小屋だったが、ここに至る道に新しい踏跡が全く見えないことから廃墟と判断した。
橋から遠い側に入口があり、木の引き戸が壊れて開けっぱなしになっていた。中を覗くと四畳ほどの空間があり、三方に大きな窓があるので意外と明るい。渓流のせせらぎが常に聞こえてくるのも悪くないが、如何せん扉が開け放たれていたせいか、最後の利用者が雑な性分だったのか、中は非常に雑然としていた。床には土間を取り囲むようにコの字の板敷きがあり、土間の煙突ストーブを囲んで数人が休める作りは、営林署などがよく作った簡易の休泊所らしい。周囲は国有林であり、元はそうした建物だった可能性が高そうだ。壁際に小さな流しと戸棚があり、使い古した茶碗が残っていた。板敷きにはぼろと化したマットレスとシーツが最後の利用者の仕草のままに乱雑に置かれていた。
床や板敷きの方々に乱雑を極めて沢山の空き瓶や空き缶が転がっていた。プルタブ式のスチール缶のジュースもあったが、大多数はアルコール飲料のボトルや空き缶だ。どれも一昔前に見た憶えがあるデザインだった。
写真は散らばっていたものの一部を拾い集めて撮影したもので、実際はまだまだ沢山あった。
この小屋を作設し、定常的に利用した人々が、かつていたはずだ。おそらくそれは国有林で働く林業関係者であったろう。そして彼らは小屋の中に空き瓶を散らかしたりはしなかったはず。
おそらくそれをしたのは、定常的な利用者が減少し、半ば放置されるようになった小屋を、非日常的に利用した、例えば私のような部外者であったと思う。
四面ある壁の一面に、おそらくマナーの悪い利用者に向けて描かれたと思われる書き付けがあった。
案内したのか ライジングサンホテルが 行はないでください。 ヤスによる夜づきは 北の又は釣場だ ヤスはすてた (柏台工●←読めず) 59年5月20日 |
この文章は下の行から読むと意味が分かる。
おそらく、昭和59年5月に書き付けの主が小屋を訪れたところ、魚を突いて捕るヤスという銛のような漁具を見つけた。書き付けの主は、「ヤスによる夜突きはマナー違反」だと憤慨し、再び訪れるであろう夜突きの一行に向けてこれを書いたのだろう。当時は多くの釣り人が入山していたのかもしれない。小屋の最後の利用者はそんな彼らであった可能性が高そうだ。
地形図の「藤七硫黄鉱山跡」について
最新の地理院地図にも注記がある「藤七硫黄鉱山跡」だが、道から微妙に外れた北ノ又川の右岸にあるため、我々も近くを通りながら実態を確認しなかった。
帰宅後に少し調べてみたが、「藤七硫黄鉱山」に関する情報は乏しく、『松尾村誌』『松尾の鉱山』『新岩手県鉱山誌』などのめぼしい文献にも、稼動についての記録がなかった。そのため、稼動した期間も規模もはっきりしない。
歴代の地形図を見ると、最も古い大正5年測図版では、「藤七硫黄鉱山」として稼働中の鉱山のように注記されていた。鉱山記号とともに2軒の建物が描かれているその位置は、現在の地形図に注記がされた北ノ又川の右岸ではなく、ちょうど今回紹介した廃小屋やアーチ橋がある左岸一帯のようである。
だが、昭和14年修正測図版の地形図では、「藤七硫黄鉱山址」と変わっており、以後の版もずっと「跡」のままである。
前述の通り、詳しい経過は不明だが、古くから湯治場として地元民には知られていた藤七温泉へ通じる登山道の沿道に、あるとき硫黄の露頭を発見した者がいて、大正時代の松尾鉱山隆興と時期を合わせて小規模な採掘が行われたのではなかっただろうか。だが、もともと埋蔵量が少なかったか、輸送方法に恵まれない立地のため、すぐ廃山したと推理する。その後今日まで長く地形図に名前が残っていることがむしろ意外と思える短命の鉱山(やま)だったようだ。
現地探索では、この鉱山と関わる遺構は全く見つかっておらず、おそらく全ては森の土へ還ったのではないだろうか。
次回、アーチ橋を渡って対岸へ! そこには、橋の正体と密接に関わる遺構があった。 |