『このレポートは、「日本の廃道」2013年7月号に掲載された「特濃廃道歩き 第40回 茂浦鉄道」を加筆修正したものです。当記事は廃線探索をテーマにしており、不用意に真似をした場合、あなたの生命に危険が及ぶ可能性があります。当記事を参考にあなたが廃道へ赴き、いかなる損害を受けた場合も、作者(マイみちスト)およびみちこ編集室・道の駅連絡会は責を負いません。』

幻の大陸連絡港と運命を共にした、小さな未成線

 

所在地 青森県東津軽郡平内町

探索日 2010/6/6

 

◆ 8:18 大築堤 西口 

 

 

 

我々は茂浦沢から陸へ上がり、築堤の上には戻らず、そのまま右岸の森へ進んだ。そして築堤の続きを探したが、左岸ではあれほど高かった築堤は、忽然と姿を消していた。そこにあるのは築堤の底辺の幅を思わせるような広い空き地と、地形図にも描かれている一本の砂利道だけだった。

 

 

 

空き地から沢を振り返ると、低い築堤の端部が見えていた。計画されていたルートは、茂浦沢を10m以上の高さで悠々と跨ぎ、同時にU字形の大きなカーブを設けて進路を下流へ反転させていたのだろう。

 

 

この探索では、鉄道が如何にして峠の高度を稼ぎ出していたかという解明は重要だったが、最終的に茂浦沢の両岸の斜面を上手に使ったルートが導き出された。海抜0mから隧道坑口がある60m程度まで、茂浦沢を迂回しながら登っていたのだ。そしてその実現の要となる最大の構造物が、冒頭から大きな目的となっていた「溝橋」に他ならなかった。

さらに溝橋の位置が特定されたことから、往路では皆目見当が付かなかった茂浦沢沿いのルートも、我々が車で走った直線の農道ではなく、北側の山裾沿いであったろうと推測することが出来た。

 

 

茂浦沢北側の山裾にも草むした道が通じている。しかし、この道が直ちに未成線跡とは言えないかも知れない。本来の大築堤の高さに達するまではスロープ状の築堤、あるいは山裾をトラバースする土工ルートが計画されたのではないか。

しかし残念ながら、大築堤よりも茂浦側で再び遺構を発見することはなかった。この区間は未着工だったのかも知れない。我々は美しい林間の道を歩いて、茂浦集落を目指した。

 

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◆ 8:32 茂浦集落が見えてきた 【現在地】

 

 

大築堤を離れて15分ほど歩くと、海岸線の代わりに茂浦集落の家並みが見えてきた。ここに来る途中でメンバーは2隊に分かれ、数人は近道で車を回収しに行っている。残った私を含むメンバーで、最後まで茂浦鉄道の痕跡を探し求めた。集落付近では初めて住民らしきご婦人と遭遇したので、早速鉄道の話を聞こうとしたが、残念ながらご存知ではなかった。考えてみれば、そう誰もが知っているはずはない、明治の未成線であった。

 

 

集落が見えてきたこの場所で来た道を振り返ると、だいたい1kmくらい離れたところに、我々が隧道西口の痕跡を発見したあたりの杉林が見えた。未成線のラインまでは見えるはずもなかったが、想像してラインを引いてみたのがこの写真だ。最大の遺構である溝橋がある大築堤だって、空撮でもしなければ見えないだろう。しかも真上から見た空撮では駄目だ。

 

自分で空撮が出来ればな…。

 

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「カシミール3D」を利用して、擬似的な空撮を行なってみたのがこの画像。茂浦集落の上空300m付近から、茂浦鉄道の遺構群を俯瞰している。

もし鉄道が完成していれば、こんな感じでラインが見えたはずだし、大築堤は一際大きく存在感を誇示していたことだろう。

 

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◆ 8:48 (再び)茂浦バス停 【現在地】

 

 

約3時間ぶりに戻って来た茂浦バス停前で少し待っていると、バスではなく、仲間が運転する車が迎えに来た。無事にデポしていた車を回収出来たようだ。

これにて茂浦側の探索は終了。

続いては、隧道の向こう側にある小豆沢で未成線の遺構を探してみよう。

 

 

小豆沢側にも、茂浦側と同程度の長さの未成線があったと考えられるものの、その現存する遺構の情報については、事前情報が全くない状態だった。隧道が貫通していたかも分からないし、工事が行われた確証はない。

我々はまず、隧道の東口を探してみることにした。それから東北本線との合流地点を目指して南下するプランで行こう。

 

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 次回、溝橋から茂浦集落へ、未解明区間を進む!