このレポートは、「日本の廃道」2010年2月号および4月号に掲載した「特濃!廃道あるき vol.26」をリライトしたものです。
当記事は廃線探索をテーマにしており、不用意に真似をした場合、あなたの生命に危険が及ぶ可能性があります。当記事を参考にあなたが廃道へ赴き、いかなる損害を受けた場合も、作者(マイみちスト)およびみちこ編集室・道の駅連絡会は責を負いません。

所在地 山形県飯豊町〜小国町
探索日 平成21(2009)年5月11日(探索2日目)

8:28
昨日の続きへ!

意気揚々と、昨日の続きであり、昨日辿り着けなかった三島道の探索をはじめる。ちなみに、路盤へ再開した地点から峠方向へも歩いてみたが、案の定、10mほどで第三谷に遮られて、完全に道は途絶えていた。

推定標高380m付近から、踏査再開!

歩き出した直後、「切り株」を発見。ちょうど道に被さるように育った雑木を伐採したような感じ。最近伐られたものではなさそうだが、とはいえ、それほど大昔ではない時期に、ここまで山仕事の道具を持った人が出入りしていた証拠といえる。昨日歩いた部分では見当らなかったから、着実に麓へ近づいている証しと思えた。

復帰地点から、笹と灌木に路面を概ね隠された道形を200mばかり進むと、第三谷と次の第二谷を分かつ緩やかな尾根を回り込む場面となった。地形が緩んだせいで、道は広場のようになっていたが、これといって何かがあるわけでもなかった。こういう場面は、進行方向を見失いやすい。

藁を敷いたような枯れ草の道に、たくさんの山菜の新芽が出ている。灌木も芽吹いたばかりだ。藪道は緩やかに下りながら、第二谷へ入り込んでいく。第三谷には大いに苦戦したが、次はどうだろう。周囲の地形は今のところ穏やかだ。

「第二谷」出現!

カメラの望遠で覗き込んだ谷間には、鋸歯のような雪渓が、崖と囓り合っているのが見えた。とても嫌な光景だ。

第二谷のファーストインプレッションでは、道があると思われる高さに雪渓が残ってしまっていることが、まず目に飛び込んできた。何度も書いているとおり、融解が進んだ雪渓は危険な存在で、簡単に越えられるとは期待しない方が良い。嫌な感じがする。谷全体も、地形図で見る印象よりは大きく、険しい印象を受けた。

たぶん、ここが今回の2日間にわたる三島道探索の最後の難関になるだろう。ここを越えれば、さすがに麓との高度差もほとんどなくなり、険しい領域は完全に脱するはず。

結構えげつない。

谷に近づくと、燦々とした日の光に似つかわしくない異様な冷気が頬を撫でる。大量の残雪の為せる技だ。さっそく雪渓に行く手を阻まれた。

この雪渓を真横に横断するだけなら、大きな空洞を踏み抜くようなことはなさそうなので(危険なのは流水のある谷を雪渓で渡ることだ)、このままトラバースすることにした。

こうして第二谷の少ない水が流れる谷底へ近づくと、今度もやはり対岸の地形が悪いことが分かってきた。対岸がスッパリと切れ落ちている。道のラインも例によって全く見えない。

8:50
「第二谷」の突破

谷底へ到着。写真の右上に見える雪渓を越えてきたが、見ての通り、雪渓の端はもの凄い段差になっているので、上手い具合に通過するのには臨機応変なルート探しの手間がいる。雪渓は遠目に見る以上に突破の難しい障害物なのである。

例によって、谷に橋の痕跡は見あたらない。明治10年代に整備され、20年代には廃絶したとされる道だ。ここまで古く、かつ雪渓に研がれ続けるような立地だと、橋台の石積みのようなものでさえ残らないことを理解する。もっとも、本当に橋が架かっていたかどうかも、地形からの推測でしかないのだが。

我ながら、こんなに収穫の少ない廃道に巡り会うことは、自分で行き先を選んで歩いている以上、あまり多くはないのだが、この道を作った三島通庸への特別な思いと、いままで間違った道を三島道だと信じていた自分への罰と、この短命すぎる道への愛情と、いろいろなことを加味して、遺構に乏しい廃道にかかずらってしまったことへの後悔は、なかった。

(この気持ちを共有できるか分からない読者諸兄に対しては、つまらぬ探索を見せてしまったかも知れないという負い目が、少しだけあるが、たまにはこういうこともあるさと、許して欲しい)

谷底から見上げる、左岸の斜面。

道はこのどこかから再開しているはずだが、まずもって見えないし、ローラー作戦で探し回れるような地形でもない。闇雲に歩き回るには、傾斜も、藪も、悪条件過ぎる。

ここは、一旦大きめな高巻きで先へ進んでから、下方に道を探すという、第三谷の突破方法と同じ作戦をとることにした。下流側には多くの雪渓があり、先へ進むには高巻きしか手がなかったとも言えるが…。

この関門を越えればきっと、幻の三島道の完全踏破が達成されるはず!