本記事では、東北各地で今もなお活躍し、或いは役目を終えて静かに眠る、そんな歴史深い隧道(=トンネル)たちを道路愛好家の目線で紹介する。土木技術が今日より遙かに貧弱だった時代から、交通という文明の根本を文字通り日陰に立って支え続けた偉大な功労者の活躍を伝えたい。

東北最古級のコンクリート道路トンネルを新発見!

今から10年前。こいつを見つけたときは夕暮れの山中にありったけの歓喜を叫んだ。雪谷隧道の発見は、私という廃道探索者(オブローダー)の人生の額縁にいつまでも飾っておきたいと思えるワンシーンになった。

この隧道は、岩手県北部の九戸(くのへ)村雪屋(ゆきや)集落から、未舗装の林道を6キロほど分け入った山中に坑口があり、軽米(かるまい)町側へ抜けていた。だが、使用されなくなってから相当に年月が経過しているようで、完全な廃隧道になっていた。付近に目印もないため見つけるのには大変苦労した。

ついに発見した、雪谷隧道の坑口!これは九戸側坑口で、コンクリートの巨大な擁壁を両側に従えた堂々たる姿だ

これまで一度も地形図に描かれたことがないこの隧道だが、記録自体がとても少なく、関係する市町村史や県史、県土木部小史などにも全く記述がない。隧道発見のきっかけとなったのは、昭和16年に内務省土木試験所が発行した「本邦道路隧道輯覽(しゅうらん)」(※)の存在だ。これは大正後期から昭和初期にかけて建設された全国(外地も含む)の主要な道路トンネル96本のデータをまとめた技術者向けの資料で、いわば当時の先端技術が投入された、国の誇るべき道路トンネルのリストなのだが、そこに雪谷隧道が記載されている。

同資料によると雪谷隧道は、大正13年8月4日に起工し、翌14年6月30日竣工した、全長145メートルからなる全面コンクリート造りの隧道だ。当時コンクリートでトンネル内部を覆工することは最先端技術に属しており、この雪谷隧道こそ岩手県最古、東北最古級の記念すべきコンクリート道路トンネルであり、本来なら土木遺産級の逸品だったのである。そんな希有な価値を有する隧道が、なぜ、歴史的にも幹線ではなかった北上山地の北縁をすり抜ける経路に誕生し得たのだろう。そしてなにゆえ、多くの記録と記憶を周囲に残すことなく消えていったのだろう。まるで幻の如し。東北の山河に対する広漠としたイメージは、この隧道に一つの頂が形成されている。こんな隧道が眠っていてこその東北だ。

土木学会附属土木図書館デジタルアーカイブスにて公開されている。東北全体では、本連載の第2回でとり上げた「雄鹿戸隧道」を含む11本が掲載。

 

1本の隧道を探し当てるまで【1】 ~事前調査編~

「 本邦道路隧道輯覽」に掲載された雪谷隧道の図。各種の技術的情報が凝縮されている。この資料に出会えたのが雪谷隧道への全てのきっかけだった

上に掲載したのが、本邦道路隧道輯覽(以下、輯覽)に掲載されている雪谷隧道に関する全てである。この資料の発見から10年を経過し、様々な机上調査を試みた後の現時点においてなお、雪谷隧道の存在を記した唯一の一次資料であり続けている。これぞ大発見への道を開いた“ロゼッタ・ストーン”というべき存在だ。そしてこれから語るのは、私がこの1枚の資料からいかにして1本の廃隧道に辿り着いたかという物語である。

 

(上)雄鹿戸隧道(岩手県宮古市~岩泉町)の宮古側坑口。(下)山伏隧道(岩手県雫石町~西和賀町)の雫石側坑口。2年違いの竣工年を持つ両者は、双子の姉妹のようによく似たデザインだ。

輯覽の雪谷隧道を初めて見た平成19年の私は、立派なアーチ石やパラペット(壁柱)を有する坑門の設計図に激しく熱情を誘われたが、同時に目に飛び込んできた「大正14630」という古い竣工日と、材料欄にあるコンクリートおよびコンクリートブロックなどの文字には、真剣さを取り戻さねばならなかった。全長約145メートル、幅約3.6メートル、高さ4.5メートルというこの隧道、なんとコンクリート造りである。これは県土木史上に残るべき1本ではないかと思い至る。

輯覽には他に県内の隧道が3本収録されていて、それは雄鹿戸隧道(昭和10年竣工)、山伏隧道(昭和12年)、白石隧道(明治18年)である。このうち、今は国道107号が通じている白石峠にあった白石隧道が「県内最古の道路トンネル」であるが、拡幅と同時にコンクリートの覆工を得たのは昭和2年である。そして従来これが県下初のコンクリート道路トンネルと考えられていた。しかし、輯覽を見る限り、雪谷隧道は大正14年の竣工当初からコンクリートの覆工を持っていたのであり、県内最古のコンクリート道路トンネルだった可能性が極めて高い! なお、前述の3トンネルは全てコンクリート隧道だが、雄鹿戸隧道のみ現在も活躍中で、かつ原形をよく留めている。そのため土木学会がまとめた「日本の近代化土木遺産2800選」にも収録されているのであるが、もしも雪谷隧道が良好な保存状態で発見されることがあれば、比肩する土木遺産になり得るかも知れない。これはお宝の匂いがプンプンするぞぃ!

 

だが、当時既に人一倍は東北地方の古い隧道を知っている自負があったにもかかわらず、雪谷隧道というのは全く覚えのない名前であった。だからこそ一瞬で興味の導火線に着火した。そして、現状を知るための長い戦いが始まった……(残り文字数8,500字以上・写真資料30点以上)

 

 

輯覽の「所在地」欄には、「岩手県九戸郡 伊保内村小軽米村界(雪谷峠)」とあった。昭和16年当時の古い地名なのでピンとこなかったが、少し調べると伊保内(いぼない)村や小軽米(こがるまい)村がどこにあったのかはすぐに判明した。

伊保内村と小軽米村はそれぞれ、現在の九戸村と軽米町の区域の一部に昭和30年と29年まで存在していた。上図はその区域を色分けしたうえで、旧村界を太い赤線で表示したものだ。輯覽によれば、この村界上のどこかに隧道があり、雪谷峠と呼ばれていたとのこと。だが、現在の地図では、この約6.5キロメートルの線上にトンネルは描かれていないし、雪谷峠という注記も見当たらない。この線の九戸側に、隧道名と同音とみられる雪屋(ゆきや)という大字(集落)が見つかったことは有力な手掛かりと思えたし、線を越える山道も何本か描かれていたのであるが、それらをつぶさに歩いても成果を得られる確証は薄かった。まだまだ情報が足りないのである。

とはいえ、この時点で既に隧道が「地図に描かれていない」=「廃隧道」である可能性が激高になった。宝探しの味を求める私の熱中がさらに深まったことは言うまでもない。

次に、輯覽に掲載されている「平面図」や「路線名」からの絞り込みを試みた。が、平面図については描かれている範囲がピンポイント過ぎて、場所の特定には役立てられなかった。路線名は「府県道福岡久慈港線」とある。これは旧道路法(大正9年制定)の府県道で、現行道路法の都道府県道に相当する。現在の二戸市の中心部辺りを当時は福岡町といったから、今風に言うなら県道二戸久慈線といったところか。しかし、そんな県道は実在しない。現在の地図に無理矢理照らして考えると、複数の県道と国道をつなぎ合わせたルートを想定することになる。特に九戸村から軽米町にかけては、現在の県道22号軽米九戸線しか該当しそうな県道はない。ならばこの県道上の町村界が雪谷峠かとかと疑いたくなる。だが、そこは右図の通り、雪谷川沿いの低地で峠などないうえ、そもそも「所在地」の欄で与えられた「旧伊保内村と旧小軽米の村界」という条件を満たしていなかったのである。

ここで輯覽からの調査は行き詰まってしまった。

当地を描いた歴代の地形図を入手して確認してみたが、なんとこれも空振り。古い地形図は国道や県道をかなり太い線で描くので、道の実情はさておき、その存在自体の判別は付きやすい。だが、明治・大正・昭和30年代までの一通りの地形図を見ても、「旧伊保内村と旧小軽米の村界」を越えるような県道は一度も描かれたことがなかったのである。もちろん隧道も描かれていない。長さ145メートルもある立派な隧道だ。本来ならば描かれないはずはないと思うのだが…。

ここで早くも自宅での事前調査に限界を感じた私は、「旧伊保内村と旧小軽米の村界」という約6.5キロメートルの山中に発見を絞り込むキーワードを呪文のように繰り返し唱えながら、現地図書館での文献調査と、その先にある現地調査へと出発した。半ば見切り発車だったが、家にいても埒があかない。

 

1本の隧道を探し当てるまで【2】 ~現地机上調査編~

 

軽米町立図書館の落ち着いた佇まい。旧軽米町役場の建物であるという。

平成19年10月23日(火)

私と探索仲間2名(ミリンダ細田氏、ちぃ氏)は、午前9時過ぎに九戸村の「道の駅おりつめ」へ集合し、まずはそこから10キロほど離れた軽米町立図書館へ向った。図書館がある町の中心部には雪谷川が静かに流れていた。探している隧道と同じ名を持つ川に、昂ぶりを覚えた。次いで現れた図書館は、なんとも味わいのある洋風木造建築だった。この知の館で、午後の現地探索への確かな糧を得なければならない。気を引き締めて、いざ入館。エントランスから入るとまずは下駄箱があり、スリッパに履き替えてから窓際の明るい廊下へ。そこから小学校の図書室を少し大きくしたような閲覧室へ入った。室内はひんやりとしているが、窓から廊下を通して斜めに入る日射しが優しい。若い母娘の姿だけがあった。我々は郷土誌コーナーへまっすぐ向った。

雪谷隧道は旧伊保内村と旧小軽米村の境にあったという。現在はそれぞれ九戸村と軽米町になっているからと、まず「九戸村史」と「軽米町誌」をチェックしたのだが、特に情報はなかった。もっと古い情報が必要だ。そう思って開いた「九戸郡誌」(昭和61年刊の復刻版、原本は昭和11年刊)がヒットした。伊保内村や小軽米村がこの地にあり、隧道がまだ出来たばかりだった時期の貴重な文献だ。

以下は「九戸郡誌」より得られた主な情報である。

 

(郡内の県道の路線一覧より)
福岡久慈港線
郡内の里程 11里27町
起点及終点 福岡町 長内村諏訪
経由地 爾(に)薩体(さたい)、江刺家(えさしか)、伊保内、小軽米、山形、大川目、久慈の各町村
(伊保内村の地勢の項より)
福岡久慈港線は、江刺家村より入って山形村に至る。
(山形村の地勢の項より)
福岡久慈港線は伊保内村より入り、戸呂町を過ぎて大川目村境にて久慈葛巻線に合す。

 

残念ながら隧道についての記述はないが、輯覽に「路線名」として記載のあった「府県道福岡久慈港線」の正体がついに明らかになった。さらに同書巻末に綴じられていた「九戸郡全図」なる手書きの地図は、同路線の位置を示す決定的な情報となった。

「九戸郡全図」(「九戸郡誌」から転載、一部著者加工)

これが掲載されていた「九戸郡全図」(の一部)である。伊保内村と小軽米村を着色し、その村界を赤線で示した。また、「府県道福岡久慈港線」とみられる線を青く着色して強調した。図の凡例によると、この太さの線は「枢要路線」とされており、より細い線に「枢要町村道」とあるので、実質的には県道を示すものと考えて良い。爾薩体村(現二戸市)から「小峠」を越えて九戸郡江刺家村へ入った道は、伊保内村の「雪屋」から小軽米村との境界線に沿って山形村に移り、大川目村、久慈町を経由して長内村(現久慈市)にあった久慈港へ至るという一連の経路である。

「九戸郡全図」(「九戸郡誌」から転載、一部著者加工)

図は雪谷隧道の在処とされる伊保内村と小軽米村の境界付近を拡大したものだ。現在の県道(県道22号軽米九戸線および県道42号戸呂町軽米線)はピンクの点線の位置を通っているので、「府県道福岡久慈港線」とはだいぶ違っていることが明らかだ。旧県道は現在の九戸村から軽米村にかけての十数キロにもわたって、今の県道とは全く違ったルートを通っていたのである! そしてそれは、隧道名と同音の雪屋地区を通っていた! 隧道のありかは、さらに大幅に絞り込まれた!!

旧県道は、もしかしたらこの道かもしれない。改めて現在の地形図を見ると、九戸村雪屋から久慈市へと抜ける1本の道路が描かれていた。これが「九戸郡全図」に描かれていた道と、位置的にほぼ重なる。この道に雪谷隧道があった(ある?)のか?! だが、なおも大きな疑問は解消されない。輯覽の「所在地」との矛盾である。地形図に描かれている道は、旧伊保内村と旧小軽米村の村境線を跨いでいないのである。この道が跨ぐのは、旧伊保内村と旧山形村の村境線だ。……これはもしや、輯覽の単純な誤記なのだろうか? その可能性も絶対ないとは言い切れないだけに私は悩んだ。もう図書館での調査を打ち切って、現地探索へ行ってしまおうか。

しかし、今ならば分かる。ここで勇んで現地調査に行っていたとしたら、私はこの日、隧道には辿り着けなかった。

 

隧道の場所を特定する決定的発見は、過去の私の探索活動では一度も利用したことがなかった、大いに予想外な資料によってもたらされた。それは住宅地図である。平成18年版「ゼンリン住宅地図 九戸郡九戸村」が、村界付近の山中に極めて奇異な道を描き出していたのである。

これらの図は、住宅地図を参考に筆者が作成したものだが、村境の尾根上にある小さな鞍部に、他の地図にはない数本の道が描かれていた。そしてそのうちの一本が、まるで定規でひいたかのように真っ直ぐ鞍部を貫いていた。これは普通に考えて不自然だ! 坑口の記号はないから隧道を示す表現ではない。だが、この不自然さは引っかかる。新旧の地形図とも、ここにいかなる道も描いていないが、4500分の1という地形図を遙かに上回る大縮尺が、大正時代の幻の道を示しているのかもしれない。しかも、この“不自然な直線道”は尾根を越えて終わりではなく、現在の県道42号の五枚橋峠頂上まで細々と通じている。この一連の道こそ、雪谷隧道を経由していた時代の旧県道の姿だと私は信じた。

 

捜索すべき地点が、ここでついに一箇所に絞り込まれた。雪谷隧道の擬定地は、九戸村の雪屋集落から東南東4.5キロ、軽米町との界である尾根上だ! 午後からは、そこを目指すぞ!

 

1本の隧道を探し当てるまで【3】 ~現地捜索編~

 

今朝まで五里霧中にあった雪谷隧道が、山中に眠る廃隧道という、廃道探索者である我々にとって最も望むべき姿で待ち受けている状況が、いよいよ現実的になった。そして、我々3人だけがその発見のカギを手にしている。そんな気持ちがした。タマラナイ高揚感と優越感! まだ目的を果たしていないのにもかかわらず、成した気になっていた。

午後の現地探索を前に、再び立ち寄った「道の駅おりつめ」で、ふだんの探索中なら昼は時間が惜しいからと入らないレストランで豪勢に飯を食い、細田氏に至ってはライスのおかわり自由に乗じて山盛りを3杯も食っていた。このタチブルマイは少しばかり探索の緊張感を欠いていた。そのせいかは分からないが、ここから急激に我々の働きは精細を欠きはじめることになる。

腹の膨らんだ一行は、峠の入口である雪屋集落へ車を進めた。国道340号から長興寺を東に折れ、かつての旧県道福岡久慈港線をなぞる村道へ。現在は周辺の牧場や雪屋地区の生活道路として使われており、悪くない道だった。

雪屋集落全景。「角川日本地名辞典」によると、昭和25年頃までは雪谷と書かれていたという。写真後方のなだらかな尾根の一画が隧道の擬定地だが、まだかなり遠い。

12:42 雪屋集落

国道から約3.5キロ、小さな丘を二つ越えた先に雪屋の家並みが見えてきた。雪谷川流域の最奥集落であり、雪谷峠の入口にあたるが、このような立地にありがちなどん詰まりから来る閉塞感はあまりなく、むしろ開放的な明るい印象を受けた。集落の背後には、北上山地北縁のゆったりとした低い山並みが横たわっており、そのなだらかさからは隧道の存在をイメージしづらい。本当にあるか不安になるが、あると信じて進む。

集落内では、開通記念碑などがないかを確かめながら進んだが、見あたらず。家並みが尽きた辺りで道は二手に分かれた。左は大雪屋、右は小雪屋の谷であり、我々が進むべきは左だ。

改めて地形図でここから隧道擬定地までの道のりを確認しておこう。隧道擬定地は、現在地(大雪屋小雪屋分岐地点)から大雪屋の谷沿いの道を約5.5キロ進んだ辺りである。そこまでは地形図にも道が描かれているが、擬定地およびその先の五枚橋峠付近までの道は、住宅地図にしか描かれていない。探索の時間には限りがあるので、このまま車で擬定地まで行けると良いのだが。

森に入ると、道はすぐに砂利道になった。林道として使われているようで、幸い封鎖もされていなければ荒れてもいなかった。我々は自動車の機動力に頼ってぐいぐい奥へ進んだ。雪屋の標高は300メートルほどだが、隧道擬定地はほぼ峠の稜線に匹敵する520メートル付近である。道はこの高低差を、古い車道を思わせる周到さで、緩やかに無理なく上っていた。

 

13:10 

そろそろ稜線に手が届きそうだ。標高が上がったせいで紅葉も始まった。この道沿いにはあまり植林されたスギ林はなく、広葉樹の森が広がっている。尾根付近は伐採後の自然更新に任せられているような場所が多く高木が少ないため、全体的に明るい印象である。

図書館で複写した住宅地図の中の無機質な等高線と、眼前に次々現れる地形の微妙な凹凸を、つぶさに見比べながら進んだ。ここは探索者としての眼力の試させれるところ。なにせ、足元の林道を最後まで辿れば隧道に行き着くわけではなく、旧県道は途中で林道から外れて稜線へと向き直り、すぐに隧道を穿って軽米側へ抜けているはずなのだ。その分岐を見逃せば、いくら林道の近くに隧道があったとしても、気付かず通り過ぎてしまう可能性が大である。

隧道擬定地付近の旧県道(林道)風景。雪屋集落方向を振り返って撮影している。背後は折爪岳か。低山でありながら広々とした痛快な眺め。いかにも北東北らしい。
隧道擬定地付近で車を降りて隧道探しを行う一行。しかし、穏やかすぎる地形が徒となったか、なかなか巡り会えずに焦りが募る。

13:45 隧道擬定地(西口)付近

擬定地付近に到着した我々は速やかに車を下りて隧道の捜索を開始した。現在既に45分間も探しているのだが、隧道はおろか、それに続く旧道の姿さえ見つけ出せないでいた。この捜索は最初、林道を横切る小さな谷の奥から始まった。そこが隧道の在処として最も可能性が高いと思えたが、無立木の伐採地が広がるばかりであった。そこで焦りが急に湧いた。隧道は全長145メートルというから、あまり稜線の近くとも考えられない。だが、どこでも自由に歩けるような穏やかな地形に頼って、町村界の尾根を乗り越え、軽米町側の谷にまで捜索の足を伸ばした。「これは隧道の埋められた跡地では?」「この日影が怪しい」など口々に唱えながら、その可能性を一つ一つ足で潰していったのだが、端から見れば道なき山をさまよい歩く不気味な一団であったろう。

そして、捜索開始から1時間30分が経過した14時30分過ぎ、尾根を照らす秋の陽が傾きはじめているのを見た我々は、相談して一度捜索を打ち切ることにした。これは完全に予想外の苦戦であった。これだけ探して隧道が見つけられないということは、まさか完全消失なのか? 嫌な想像が脳裏をよぎる。

なんて真剣ぶってみたところで、実のところかなり情けないミスがこの事態を引き起こしていたのであり、あまりこの話は引っ張りたくない。これは今だから分かることだが、我々が1時間半もかけて捜索していた範囲というのは下図の通り、見事に隧道擬定地を外れていた。午前の調査で「探そう」と決めた場所をまるで探せていなかったのである。当時(10年前である)はメンバーの誰もGPSを携行していなかったことが、この恥ずかしいミスの最大の原因だが、今思えば気の緩みもあったと思う。

と、ともかく、一時撤退だ!

このままでは埒があかないと考えた我々は、仕切り直して軽米側から探すことにした。五枚橋峠から、住宅地図に描かれている旧県道らしき道を辿って、今いる尾根を目指してみよう。住宅地図通りなら、軽米側には紛らわしい林道がなく、旧県道がより明瞭に残っている期待が持てた。隧道までの距離は少し長いが、一度旧県道を見つけられれば、そのどん詰まりが隧道の擬定地である。急がば回れの精神だ。というか、時間的に次で決めないと後がない。急げ~!!

15:10 五枚橋峠頂上

再び車に乗り込んで、五枚橋峠の頂上にあるスノーシェルターの久慈側入口に停めた。今日の朝までこのようなルートを全く想定していなかったが、久慈市と軽米町の境であるこの峠が旧県道と現県道の合流点であり、旧県道の雪谷峠(雪谷隧道)は、ここから2.5キロほど山沿いを西へ進んだ所にあったというのが、私の考えだった。未だ住宅地図だけが根拠である薄氷のようなこの説に、今は命運を託している。

県道は峠の頂上を長いスノーシェルターで通過していて、ぱっと見は旧県道との分岐などありそうにないが、よくよく観察すると、シェルターの南側に藪に覆われた側道のような細い道が見つかった。これが使えそうだ。車をシェルター脇に停め、今日最後の探索へといざ出陣!

右下に無機質なシェルターを見下ろしながら、枯れススキの藪と化した側道をシェルターに掘り下げられる以前の旧来の峠の高さまで真っ直ぐ登る。そのまま峠を越え下りに転じてすぐ、道は突如左へ折れた。

15:15

やった!! ついに捉えたぞ、旧県道の廃道跡を! 舗装こそないが、この5メートルもあろうかという道幅の広さは、一介の造林作業路や林道の枠を明らかに超えている。私の廃道アンテナが、これは間違いないとビンビン反応している! 輯覽を初めて目にした日から、隧道の在処として名前だけが一人歩きしていた「府県道福岡久慈港線」は、旧道路法が公布された大正末に府県道認定されるも、昭和27年の現道路法認定以降の都道府県道にはなぜか引き継がれなかった“幻の県道”だ。雪谷隧道の在処へと導くその痕跡に、我々はようやく肉薄した!

ついに捉えた! 今まで名前だけが一人歩きしていた「府県道福岡久慈港線」の廃道跡だ! 単なる山林作業用の道とは思えないほどの広さがあり、一目瞭然で旧県道だと思った。

道の周りにはスギの植林地が断続的に存在しており、林業関係者の出入りが稀にあるようだ。作業小屋の跡や林業機械の残骸が放置されていた。いずれ伐採の時がくれば道も甦るのだろうか。路面はかなり草むしているが、目立った崩壊はない。我々は足早に藪を掻き分けて先を目指した。

道幅は広いが、未舗装の路面に砂利は敷かれておらず、単純な土道である。このような道を重い自動車が何度も通れば深く轍が刻まれるはずだが、そうしたものも見当たらず、平らである。あまり自動車の姿をイメージできないのは、荷車や馬車が道路交通の主流であった大正時代生まれの道路だと思うからだろうか。林業関係者の細々とした出入りを除く、旧県道としての往来がいつ頃まであったのか、正直想像しづらい。

今日初めての廃道歩きらしい廃道歩きだが、道は坦々と続いており、周囲の景色にも余り変化はない。五枚橋峠が標高450メートルで、目指す雪谷峠が550メートル付近なので、2.5キロ近くあるこの間の道のりは自然なだらかなものになる。だが、先に待つものへの期待感があまりにも大きく、退屈など全く感じなかった。暗くなる前に答えが見たくて、汗を搔くほどの早足で進んだ。

15:42

巨大なコンクリート擁壁と遭遇!

五枚橋峠から1.5キロほど進んだ地点で遭遇した、道に沿って長々と続くコンクリート製の土留め擁壁。ボロボロだが、とても良い味を出している。

五枚橋峠を歩き出して30分強、約1.5キロ進んだ地点で、それまでなかったものが忽然と出現し、我々を大いに興奮させた。それは道の山側を抑える、長い長いコンクリート製の土留め擁壁だ。100メートル以上も続いていたが、表面のひび割れが激しく、著しく老朽化していた。石垣でも煉瓦でもない、コンクリート。普段に現役の道で見たならば、なんの面白みも感じないだろう壁だったが、我々はここに、岩手県初のコンクリート隧道「雪谷隧道」へと繋がるものを、確かに感じとった!

実際のところ、この擁壁はいつ頃に造られたものなのだろうか。はっきりしたことは分からない。だが、これだけの規模を持ちながら、水抜き用のパイプ穴が見られない。おそらくこれはコンクリート擁壁の施工方法が未だ確立されていなかった時代、すなわち大正末の開通当時に建造されたものではないだろうか。全体的な老朽度合いから見ても、戦前生まれは間違いないだろう。

なんとこのコンクリート擁壁は、山側だけでなく谷側にも存在していた。少し大袈裟かもしれないが私は言いたい! 万里の長城のようであると! 少なくとも我々は、管理された本物の万里の長城以上に、このうらぶれた廃擁壁にこそ興奮した。

旧県道は九戸村と軽米町の界である稜線の北側斜面を横切っており、蛇口川の源流である小さな谷をいくつも巻いている。この両側を擁壁に守られた道のある場所は、中でも特に深く沢が切れ込んでいて、地形の険しいところである。

2車線分もあろうかというほどの立派な道幅を持つ廃道が、淡々と続いている。だが、ガードレールや道路標識など、この道がいつ頃までどのように使われていたのかを想像するヒントは現れない。通行人が投げ捨てただろう空き缶を何度か見たが、それらは全てプルタブ採用以前のものだった。こんなことからもいくらかは過去を想像出来るが、決定的なことは分からない。

擁壁を過ぎて少し進むと、小さな谷を大きな築堤で越えるシーンがあった。ここは笹藪が深かった。谷の水は築堤に埋め込まれたヒューム管を流れているようで、これまた古い道の作りだ。

歩いている最中に16時を回った。太陽も日没に先駆けて西側の峰の向こうに隠れてしまい、以後の探索は急速度の暗転を約束されたなかで行うことになった。依然として安定したペースで前進しているが、距離が意外に長いため、未だ隧道擬定地に辿り着けない。

16:04

スタートから約1時間、五枚橋峠から2キロ地点の切り通しを通過した。これまででは最も目立つ切り通しだ。現在地が我々の想定通りで、かつ住宅地図の表記が正しければ、これ以降の道は進路が南西方向に固定され、そのまま300メートルほどで雪谷隧道の擬定地に突き当たるはずである!

果たして期待通り、道は南西に向いて進んでいる。路肩には太い松の木が一列に並ぶ。まるで路肩を守るべく、かつて人為的に植えられたかのようだった。路肩の下には深く刻まれた谷があるが、急激に道を追い上げてきている。

16:17

遂に谷に追い立てられて、前方には自分たちよりも低い土地がなくなった。もう谷のどん詰まりに差し掛かっている。今までのこの道は、このように行く手を山に阻まれるたび素直に引き返してきたのに、今回は初めて敢然と立ち向かっていく。今まで隠してきた伝家の宝刀を、遂に披露する気に違いない!

 

やれ! いけ! そこだ!

 

私はふくらはぎに力を込めて、心からの声援を、足元の道へと送った。

 

願わくは、この先に蓄願満つる、雪谷隧道との邂逅あらんことを!

 

最高に緊張する力が入る瞬間だ。廃道歩きにおける最高に高密度な場面。

 

敢えて駆け出すことはせず、噛み締める様に歩く。

 

ここにいる3人は間もなく、笑うか泣くか、そのどちらかの結末を迎える――。

 

 

先頭を歩いていた細田氏が足を止めた。こちらへ振り返った。

口をぱくぱくしているのに、言葉が出ていない。

 

「どうした!」

 

思わず強い口調で尋ねた私。

細田氏は、叫んだ。

 

マル!

 

そう叫びながら、勢いよく両腕を頭上に掲げて、指先を重ねて見せている。

こっ、これはなんだ?! 突然の仲間の奇行に、気圧される私とちぃ氏。だが細田氏はそのまま

 

「マル!マル!マル!…」

連呼が止まらない!

 

ああ!そういうことか! 私はやっと理解した。「○×」の「○」か!!

余りに必死な彼の姿に、それが無念さから来るものなのか、あるいは感激なのか即座に測りかねたが、今や彼の顔面は布袋さまのようににこやかだった! やったか! 俺たちはやったのか?!

 

日没後、廃道のどん詰まりで遂に遭遇した、雪谷隧道とみられる廃隧道の坑口!酷く崩壊し、落ちくぼんだ髑髏の眼窩のように、禍々しい姿であった……!

やりました!

これぞ、私という廃道探索者(オブローダー)の人生の額縁にいつまでも飾っておきたいと思えるワンシーンだ。

 

【後編へ続きます】