このレポートは、「日本の廃道」2010年2月号および4月号に掲載した「特濃!廃道あるき vol.26」をリライトしたものです。
当記事は廃線探索をテーマにしており、不用意に真似をした場合、あなたの生命に危険が及ぶ可能性があります。当記事を参考にあなたが廃道へ赴き、いかなる損害を受けた場合も、作者(マイみちスト)およびみちこ編集室・道の駅連絡会は責を負いません。

所在地 山形県飯豊町〜小国町
探索日 平成21(2009)年5月10日

1856 電波塔を見た地点

同じような地形の繰返しを黙々と歩いている。尾根を巡れば谷があり、谷を跨げば尾根が現われた。その繰返しの中で、時間と体力を確実に消耗した。いくつ目かの尾根を回り込んだところで、これまでになく大きな谷が、視界いっぱいに広がった。

まるで氷河地形の圏谷のように、解放的かつ急傾斜な谷だった。水が流れる谷というよりは、雪渓と雪崩に磨かれた広大な窪地のような谷。道はこんなところを無造作に横断していたのだろうか。少なくとも、この場所から突入しているのは確かなようだ…。

この谷を見た瞬間、私の「踏破したい」という決心の中に、如何ともしがたい「諦め」の気持ちが広がった。まさに夜を迎えようというこの時刻、残り数分しかないだろう薄明かりのタイムリミット内に、こんな大きな谷を越して次の安全地帯(おそらくそこは次の尾根)へ辿り着けるとは思えなかった。しかも、次の一歩目からして、強烈な横殴りの嵐のような灌木の藪に足を踏み入れねば進めない状況だったのである…。

ここを進むのならば、谷の途中で夜になることを受け入れて、そこからは灯火を以て突破するという決断になるだろう。私は少しだけ悩む時間を持った。

………この探索を、「三島通庸と私の闘い」だと私は自負していた。それはゲームのボス戦のようなヒロイックな心持ち。たが、リアルはそうではなかった。実際はただの…

山と私の闘い

…だったのである。

山道を通行するという行為は、山道を味方につけて、己の技量を武器に自然地形と対峙することだ。したがって道を造った者、そしてその道を管理する者は、100%味方である。今回の探索に無理矢理でも三島との関係を織込むならば、これは「私と三島の共闘」と言うべきだった。

そのうえで、私がオブローダーとして敬愛する三島の力も、この地においては十分な成果を挙げなかったと言わねばなるまい。彼が速成した峠道は、全国屈指の豪雪地に挑む道の姿としてはあまりにも無防備で、無造作すぎた。

この景色から再び現在地を確認できたが…。

峠がある尾根上に電波塔が見えた。稜線上には宇津峠の南と北に一つずつ電波塔がある、ここから見えたのは、北側のそれ……地図中の「電波塔(北)」だった。

それまでは山ひだに阻まれて見えなかった電波塔が見えたことで、現在地が改めて特定出来た。現在地は、見えた電波塔から直線距離で2.2km南の尾根付近で、旧々道の峠道とは1.2kmくらい離れている。私が越えてきた「三島新道堀割」からは、道ベースで2.2kmほど進んでいたが、これに2時間あまりを要していた。相変わらず、孤立無援の急斜面のただ中にあることを、自覚させられた。

私はここでボイスメモ的な動画を撮影していた。そこに私は、「このあたりで一晩を明かした方が無難か」などと吹き込んでいたが、これは最悪のケースを受け入れねばならない場合を想定した心の準備のための「強がり」でしかなく、まだそのつもりは全くなかった。実際、私のリュックの中には、エマージェンシーシュラフ(アルミ箔みたいな緊急用の寝袋)があるだけで、野営の準備などなかった。

もはや一刻の余地もなく、周囲は完全なる夜の闇に閉ざされつつあった。しかしそれでも私は、ライトを点けずに歩み続けた。この時間も無駄な彷徨いではなかった。執拗な灌木の藪を全身で掻き分けながら、谷の横断へ向けてのトラバースを続けていた。私が進めば進むほど、宇津峠の全ての世代の道の東口にあたる落合地区へ近付いているのは確かだった。

現に、このとき、私の元へは落合集落の消防団が奏でる火の用心の鐘の音が届いていた。集落を通る国道の道路灯も小さく見えた。ここ一番、この大きな谷さえ乗り越えられれば、夜の闇の中であっても、この道を完全に踏破出来て麓へ辿り着ける希望は、まだあった。

1900 大きな谷の核心へ

とうとう午後7時になった。次第に暗くなる状況に長く目を慣らされていなければ、ここはもう夜の闇の中なのだと思う。夜の闇の中で、得体の知れない谷を横断しようとしている。

灌木帯を突破して、谷の核心部へ近付くと、地表から緑が消えた。草木のほとんどない、硬い土の荒れ地だ。ここまでは辛うじて続いていた路盤跡の平場も、この先でついに斜面に呑まれている。幸い、ここから見える範囲においては、急な傾斜ではなさそうだが…。

この谷を突破し、再び平穏な地形に抜け出すまでは、どうしても無灯火で乗り切りたかった。息を整える間もなく、突き進む。

谷の本当の核心。水が流れ落ちている部分には、おそらく小さな橋でも架かっていたのであろうが、痕跡は何もなかった。少量の水を流す谷の両側は、晩秋の田んぼを70度くらい傾けたような荒れ地になっていた。普通なら横断不可能な傾斜だが、枯れ草の密生が、まるで藁を敷いたようになっていて、強引なトラバースを可能にしていた。もっとも、墜落したらどうなるか分からない。枯れ草の上には全体に薄く乾いた泥が乗っていた。それはごく最近まで、ここが雪渓の下であった証拠だ。

いやに冷えやがると思ったぜ…。

私が横断した場所の20mほど下には、谷を埋めるに足る十分過ぎる量の雪渓が溶け残っていた。水が流れる部分は空洞で、雪渓全体が谷へ蓋をするような形状(雪橋)だ。登山をされる方ならご存知だろうが、この状態の雪渓は極めて危険だ。横断中に崩壊し、空洞内部へ何メートルも転落した挙げ句、真っ暗な氷水の谷で溺れる恐れがある。普通に死ねる。私が横断した地点の雪渓が切れていたのは、大きな幸運だった。

GPSを持っていなかった当時の私は、風景などから現在地を把握するたびに、手元の地形図にペンで点を打っていた。大きな谷という目立つ地形が現れたことで、改めて現在地を判断した。

そうやって把握し続けてきた現在地をつなぎ合わせて、ここに表示した地図のようなラインが大まかに得られた。

まだ途中だが、なんと誇り高いルートだろう。誇り高いという表現は独特過ぎて伝わりにくいかも知れないが、私なりにこのルートの孤独なオリジナリティを評価した表現だ。こんなに独自性のあるルートが、明治のわずかな期間だけしか使われず眠り続けていたのか。

辿ってきたルートは、この景色の中を横断している。草付きの雰囲気から辛うじて道の位置が確認できる。

水が流れる部分は一筋だけではなかった。谷の核心部に水流が二筋あり、一筋目に近接して流れていた。これはその第二の谷筋を超える部分だ。ここも完全に道が途絶えていて、土まみれだった。やはり同じように急斜面をへつって突破した。

今が無灯火で活動しうる最後の数分であり、顔をしかめる時間も惜しかった。なんとしても谷を跨ぎきってから、安全な場所で灯火探索に移行する!

1904 アクシデント!

二筋目の谷もトラバースで横断し、その対岸に見えた、平場だと考えていた緩斜面へ辿り着いたのだが、

これが問題だった。

写真では伝わり辛いだろうが、ここは足元がグズグズの崩れやすいガレ場で、しかも狭かった。うっかりすると、滑り落ちて、ずっと下の雪渓の谷まで連れて行かれてしまいそうだった(二筋の谷はすぐ下で同じ雪渓に繋がっていた)。咄嗟に恐怖を感じた私は、草木にすがり着くように横移動を繰返し、このグズグズ斜面の危険地帯を突破しようとしたが………、

突破出来たかと思った時には――

ワレ遂ニ路盤ヲ見失イタリ!

あと少しで安全地帯と思った矢先、恐れていた展開が現実に?!