このレポートは、「日本の廃道」2012年8月号および2013年4月号ならびに5月号に掲載した「特濃!廃道あるき 駒止峠 明治車道」をリライトしたものです。
当記事は廃線探索をテーマにしており、不用意に真似をした場合、あなたの生命に危険が及ぶ可能性があります。当記事を参考にあなたが廃道へ赴き、いかなる損害を受けた場合も、作者(マイみちスト)およびみちこ編集室・道の駅連絡会は責を負いません。

所在地 福島県南会津町
探索日 平成21(2009)年6月26日

2009年6月26日 14:18
最後のご褒美

この段々に見える斜面

九十九折りの道路である!

これぞ明治車道の本領を発揮する一大道路景観!

日本語には激しく蛇行する長い道を示す表現がいくつもあった。たとえば、羊腸、あるいは、蜿蜒など。しかし現代の日本には該当する道も少なくなり、言葉もせいぜい九十九折りという表現が耳にされる程度だが、昔の日本、より具体的には文明開化によって馬車をはじめとする車輌というものが山がちな国土にもたらされ、車道が山間部にも延びるようになって以来しばらくは、各地に羊腸にして蜿蜒たる九十九折りの隘路が無数に建設されて、辛うじて車の通行を許したのだった。

しかし、人や牛馬が牽引するより動力源を持たない非力な車で高い峠を越すためには、激しく道を蛇行させて勾配を抑えつつ距離を稼ぐよりなかった(厳密にはトンネルで峠を越える手もあったが、それは技術的にも資金的にも、国家主導の鉄道事業以外での採用は稀だった)。そうして整備された峠道は、この目の前の景色のように冗長なものであった。そしてそれは大半の利用者である歩行者には一般に不評であり、引き続き近世以前までの古道がよく歩かれていたという話がある。

なるほど現代においても、“峠の古道”としてハイカーなどによって愛され生かされている道の多くは、江戸時代までに整備されていた道が多いし、そこには多年に利用し続けてきた人々の愛着もあるだろう。一方、明治から大正時代に主に整備された自動車以前の車両交通を対象とした“近代車道”の峠道は、その後に再整備されて自動車に対応したものはまだしも、そうならなかった道の多くが短命のまま廃道となって山中に眠っている。近代車道の多くは、歩くには冗長に過ぎ、自動車には路体が脆弱すぎたので、わが国の自動車以前の車輌交通時代が西洋ほど長く続かなかったこともあって、“近代車道”にとっては不遇な国土であったといえる。

このようなわが国の交通史の特徴は、駒止峠の例を見てもそっくり当てはまる。明治21年に開通した最初の車道であった今回歩いた道は、明治40年に整備された2世代目の車道によって旧道となり、短命のまま廃道となった。一方、2代目の車道は、昭和時代に自動車が通れるように再整備されたことで存続し、昭和57年に現代の駒止トンネルの国道が整備されて旧国道となった後も細々と利用されている。

つい熱くなって長々と語ってしまった。この最後に現れた九十九折りは、合計5段からなっていた。途中に切り返しが4つ一連の九十九折りだ。この写真は上から2回目の切り返しに立って撮影した。上にも下にも、まるで段々畑のように道が延びているのがよく分かるだろう。

この一連の峠道には、50を越える数の九十九折りがあったが、中でもここが圧倒的に保存状態が良い。なぜこんなに綺麗に残っているのか。もともと比較的緩やかな斜面であるおかげもあるだろうが、なぜか地面が綺麗に清掃されていることが見栄えを決定的に良くしている。下草がまるで生えていない。まるで現役の道だが、道の中央に樹木が生えているこの道の幅を一杯に使う交通など、もはやあるはずもないのに。

結局、なぜこんなに綺麗にされていたのか、理由は分からないままだ。九十九折りを鑑賞するという、多分どこにも存在しない観光地のようだが、近くにはそれらしい案内はもちろんないし、本当に普通なら気付かない場所である。

それはありえないことだが、私の今日の訪問を事前に察知した何者かが私のために、最後のこの九十九折りを最高の形に整えておいてくれた……。そんな印象を持たざるを得ない奇跡の場面だった。(おかげさまでこのシーンは、近代車道の「生きた化石」として色々な媒体で発表させていただいている。私の道路コレクションの中でもとびきりのお宝となった!)

そんな素敵すぎる5段の九十九折りの終わりが、この道の終わりでもあった。最後の段の最後の部分は、下にある田んぼの畦道によって削られた数メートルの段差によって遮られていたのだ。道は僅かにここで切断されていて、山道への車の出入りを完全に遮っていた。ここが現代との接点であり、一連の旧旧道踏破における実質的なゴールだった。

荊棘の明治廃道を踏破した私は、ようやく現代への帰還を許された。

14:27
旧駒止峠越え達成

畦道……おそらくもとはここも旧旧道だったはず……に降り立つと、ほんの50mばかり先の道端に私の自転車が待っていた。さすがは我が愛車。事前に私の下山地点を察知しての出待ちとは恐れ入る。冗談を抜きにすれば、探索前に私が「多分この辺に降りてくる」と予想して予めデポしておいたわけだが、良い読みだった。そして私は無事に帰ってきたという実感をより深めることが出来た。

歩き出しから8時間10分。

市町村合併が進んだ現代においては、たかが南会津町という町内の東西を結ぶだけの峠越えだったが、とんでもなく時間が掛った。自動車で今の駒止トンネルを使えば、ほんの10分で済む移動に、8時間10分を費やしたのである。思わず笑ってしまうほど低効率な移動を、今日はこの肉体の全てを使って表現した。

まるでナマコのようにのっそりとした動きで自転車に跨がってペダルに体重を乗せると、その軽やかな動きに昇天の心持ちがした。自転車最高! 車道も最高! 何時間も絡め取られていたあの藪漕ぎの悪夢が嘘のように爽快な気持ちだ。

そしてすぐに畦道(旧旧道)は、一回り立派な舗装路に出迎えられた。これが旧国道(明治41年開通)であり、針生集落で袂を分かって以来、お互いそれぞれの峠越えを果たしたうえでの超ひさびさとなる再会だった。まあ、私の旧旧道はワル過ぎたが…。

分岐に立って旧旧道を振り返っても、ただの畦道以上の印象は持ち得ない、平凡な道の姿がそこにはあった。とてもこれが峠を越える道だったとは思えない。

14:33
南会津町東 新旧国道合流地点

旧道に迎えられた後は、間髪入れずすぐに現道(昭和57年開通)にも迎えられる。ここを右折すれば山口(旧南郷村)只見方面。左折すれば駒止トンネル経由で針生、田島方面である。

私はここを左折し、トンネルを越え、車の待つスタート地点へ戻った。

現代の地形図に、まるで置き忘れられたように描かれていた徒歩道上の水準点記号の列。それらに導かれて始まった今回の探索は、明治初期の車両交通を支えた車道の姿を知るものとなった。それはあまりにも愚直であり、私には、田舎者が考えた車道に思えた。田舎とは、車両交通をだいぶ遅れて受け入れたばかりだった明治のわが国である。その遅れを、田舎者は取り返したくて必死になり、焦りによる大きな犠牲を払いながらも、最後にはこの誇らしい土木先進国へ至ったのだ。その百年を、廃道に打たれた水準点は黙って見ていた。

【完結】

本作はこれにて完結です。長らくのご愛読、ありがとうございました。