このレポートは、「日本の廃道」2010年2月号および4月号に掲載した「特濃!廃道あるき vol.26」をリライトしたものです。
当記事は廃線探索をテーマにしており、不用意に真似をした場合、あなたの生命に危険が及ぶ可能性があります。当記事を参考にあなたが廃道へ赴き、いかなる損害を受けた場合も、作者(マイみちスト)およびみちこ編集室・道の駅連絡会は責を負いません。

所在地 山形県飯豊町〜小国町
探索日 平成21(2009)年5月11日(探索2日目)

4:55
コンビニ駐車場の車内

窓の外の明るさで、自然と目が覚めた。ここは宇津峠からは最寄りにある飯豊町内のコンビニの駐車場だ。昨夜22時過ぎに到着し、ここで買った物を車内で食べたらそのまま爆睡していた。そして迎えた、探索失敗の翌朝だった。

思うに、昨日のルートロストからの敗北劇は、とても悔しいものだ。そもそも、あんな時間から入山したのが失敗だったし、途中で引き返さなかったのがもっと失敗だったが、いざ生還してみれば、身体は意外にピンピンしているし、気持ちも萎えてはいなかった。

本来なら、今日は福島県内に移動して別の探索をする予定であったが、それを明日に延期して、今日は朝一から、昨日の敗北の続きをやってみようと、起きてすぐに決心していた。この決断を強く推してくれたのは、明け空の透き通るような快晴だ。この空のもとで朝イチより行う探索は、きっと爽快だろう。闇に溺れた昨日のリベンジには最も相応しい。そう思えた。

次に私は車内を漁って、家から持参していた東北一円の旧版地形図を調べた。そして目当ての5万分の1地形図「手ノ子」と「玉庭」を取り出す。探索前から何度も目にしているこの2枚の地形図に、「三島道」が描かれていなかったことは間違いないが、昨日の体験を踏まえて読めば、何か新たな気付きが得られるかも知れないと思ったのだ。

う、うそ ?!

清明」集落を発見!!

大正2年測図同6年要部修正版の「手ノ子」を見ると、宇津峠の旧々道から分岐する破線の道、すなわち「小径」の記号があった。そしてそれは明瞭な切り通し(=三島新道切割)で村の境を越えるとまもなく、「清明」と注記された地点で終わっていたのである。

このことは私の記憶からはすっかり欠落していたが、現代の地形図から完全に消滅している「清明」が、当時の地形図にはまだ描かれていたのだ。しかもそこには小さな建物の記号が二つあった。他に学校も神社もないそこは、当時でさえ既に無住だったかもしれない。でも、地名があるということは、少なくとも周囲よりも重要な土地であったことを物語っていた。

地形図からの発見は、これだけではなかった!

落合側にも発見!!!

「清明」の文字の右の方、宇津川に沿った山肌に、「二重破線」の道が、途中まで描かれているではないか!

この行き止まりの道こそ、三島道の一部ではないのか!

この二重破線の道路記号は、「里道」のなかでも一番重要度が低い「間路」を示しており、これは前述の「小径」に次いで重要度が低い道。だがそれでも「小径」よりは重要だ。旧地形図を見慣れている人なら、この道の描かれ方の不自然さに気付かれたのではないだろうか。当時の地形図の通例として、終点に何もないただの行き止まりの道が、「小径」ではなく、「里道」として描かれることは、あまりないのである。

ここから何が疑われるかといえば、行き止まりの道は最初から行き止まりの道だったのではなく、もともとは清明まで繋がっていた「里道」があったが、この地形図が作られた時代は既に廃道化していて通れなかったから、行き止まりとして描いた。そんな推測ができるのである。

もっとも、後日に見た大正2年測図版(当地を描いた一番古い地形図)でも、この道は同じところまでしか描かれていなかった。つまり、明治末頃には既に、三島道の通り抜けは出来なかったのではないだろうか。(ああ、三島道……涙)

何という奇妙な偶然!

旧地形図の里道が途切れている地点というのは、ちょうど昨日の私がルートをロストした辺りだ!

つまり、昨日歩いた、清明からルートロスト地点までの道は、旧地形図に描かれていない。だが、そこから麓までは、描かれている。辿るべき道が描かれている!!

今日の計画は決まった。

昨日の残りを、辿りきる!

待っていろ三島道!
今日は逃さん!

三島道へのリベンジは、今日だ!!!