このレポートは、「日本の廃道」2008年12月号に掲載した「特濃!廃道あるき vol.18」をリライトしたものです。
当記事は廃線探索をテーマにしており、不用意に真似をした場合、あなたの生命に危険が及ぶ可能性があります。当記事を参考にあなたが廃道へ赴き、いかなる損害を受けた場合も、作者(マイみちスト)およびみちこ編集室・道の駅連絡会は責を負いません。
所在地 秋田県男鹿市
探索日 平成20(2008)年12月3日
10:15 溜め池のほとりへ
「最高」の築堤、「最高」の保存状態を誇るバラスト路盤から始まった仙養坊支線の探索だが、田んぼの端を一歩外れれば途端に
「 完 全 廃 道 」
という四文字そのままの状況に堕ちた。しかもこれ、笹とツタとイバライバラというハード藪三銃士がコングロマリットした最も試練度の高いタイプの藪だった。オブローダーたるもの藪には慣れているとはいえ、3分もいれば誰でも顔が紅潮する藪である。こんな状況が続けば堪らない。
藪突入からちょうど3分、100mばかり進んだところで、真っ赤な顔の前に、鏡のような水面が広がった。これは地形図にも描かれている溜め池である。
男鹿の河川は、半島の宿命として水量が少ないため、灌漑目的の溜め池が小さな沢にもよく作られている。この池がいつからあるものなのかは分らないが、この支線が敷設された大正5年より前からあると思われる。
軌道は、池の畔というべき位置をすり抜けて行く。奥に一本松が見えると思うが、実はあそこまで昔歩いたことがあった。しかしまさか奥に隧道があったとは思わず、谷の奥まで行っても行き止まりだろうからと引き返した記憶がある。
一本松に近づくと、再び笹藪が密になった。それも、前夜の雨でしとどに濡れた腰丈の笹藪だ。私の二重履きのズボンはあっという間にびしょ濡れ。濡れたズボンを伝って、長靴の中にも水気が浸透してくる。たいへん不快だが、廃道歩きでは避けられぬ。12月のわりに、さほど気温が低くないのは救いだろう。むしろ、この藪と格闘していると、すぐに暑くなってくる。
池畔の路肩には、補強用と見られる古い丸太が所々に残っていた。桟橋というほど「架かって」はいない。どちらかというと、路肩に「置かれている」感じ。地味だが、おそらく軌道時代からの遺物だろう。
10:27 徐々に高度を上げる軌道
最初は水面すれすれの高さから始まった軌道跡だが、細長い池の畔を200mも進むと、水面から7~8mも高い位置を通るようになった。峠の隧道を目指して緩やかに登っている。相変わらず路盤上の笹藪は深いが、若い樹木も遠慮なく生えている。
小さな沢が路盤を横切って池へ流れ込んでいた。ここには木橋があったようで、苔生した桁の残骸が数本、地面に散らばっていた。残っていてくれたら良かったのに。思わず後続の細田氏へ向かって、「渋いな…」と零した。
10:37 溜め池を過ぎると石垣が現れた
支線の起点から歩き出して30分経過。溜め池の上端に辿り着いた。そこには沢の本流を堰きとめるコンクリート製の砂防ダムがあった。地図を見ると、この辺りが支線起点と隧道擬定点の中間地点である。
ここまで、軌道跡としての遺構は「やや渋い」が、前進自体は順調である。
再び小さな枝沢が行く手を阻んだ。そして再び、残骸と化した木橋の跡。残念だが、昭和30年代に廃止された木橋の現存は、相当に無理な願いであろう。
枝沢を乗り越えると、山側の低い法面に苔生した石垣が残っていた。近づいて見ると、緻密に積まれた堅牢そうな間知石の石垣で、以前に探索した男鹿林鉄の本線でも間知石の石垣を見ている。現地調達の石材だろうか。
あ、これ……。
いわゆる、
「察し」
という心境になった。
察したのは、この山の地質的な悪さである。砂山だ、ここ…。
弱い法面に堅牢な石垣があったことは、この伏線だったかもしれない。それだけ崩れやすい地質ということだ。
法面が石垣ごと崩れて、隠されていた地山が露出していたが、それがもろに砂山だった。
こんな風化した地質に、果たして隧道を掘ることが出来るのか。仮に出来たとしても、それが廃止から半世紀放置されて大丈夫だろうか……。
次回、谷の奥へ、奥へ、奥へ!