このレポートは、「日本の廃道」2012年8月号および2013年4月号ならびに5月号に掲載した「特濃!廃道あるき 駒止峠 明治車道」をリライトしたものです。
当記事は廃線探索をテーマにしており、不用意に真似をした場合、あなたの生命に危険が及ぶ可能性があります。当記事を参考にあなたが廃道へ赴き、いかなる損害を受けた場合も、作者(マイみちスト)およびみちこ編集室・道の駅連絡会は責を負いません。

所在地 福島県南会津町
探索日 平成21(2009)年6月26日

7:00
古道との交差地点

小峠へ登る最後の九十九折り群に差し掛かっている。地形図から想定される切り返しの回数は5回と、最初の九十九折り群が16回も切り返したのに比べれば控えめだが、替わりに切り返しと切り返しの間隔が大きく(これを「九十九折りのスパンが大きい」という)、決してあっという間に終わる行程ではない。

現在、この九十九折り群に入ってから2度切り返した先のトラバースを西向きに歩いている。前回の切り返しから既に300m近く歩いていて、スパンの大きさが実感できるのだが、ここで小さな尾根筋を横断する。

この尾根の上に、尾根を直登する一筋の道の跡を見て取った。これは私の想像だが、ここで交差する地形図にない尾根道は、明治21年以前の江戸時代に使われていた針生街道なのかもしれない。古い時代の道ほど尾根を頼りに最短距離で峠を目指したものである。九十九折りなどはまず描かなかった。そうだとすれば、常に野獣の襲撃に備え、短銃の特別所持を許された郵便逓送員が通った道(導入編④参照)は、ここだったことになる。

写真に立体的な凹凸が分かるように補助線を入れてみた。こんな感じに尾根の上が少し凹んでいて、下って行く道形になっている。目測3尺(90cm)前後の狭い凹みの列である。もちろん山仕事道の可能性もあるのだが、少し凹んでいることは、非常に長い期間にわたって踏み固められた道であることを伺わせた。

そして古道と思しき小径の痕跡は旧々道を突っ切って、同じ尾根に沿って上へ伸びていた。この尾根の上には小峠があり、おそらくその辺りでまた合流するのだろう。黄色い線がいま歩いている明治道(初代車道)のラインだ(上の段は地図からの想像)。

まもなく3度目の切り返しかと思うが、路の真ん中に堂々と生えた(おそらく植えられた)カラマツの太さが見事なものになってきた。カラマツという木はスギと同じ針葉樹だが、冬は落葉し、夏であってもスギほどは森を暗くしない。もともと日本中に自生していたわけではない木だが、気象条件が適合するとかなり早く生長する特性があり、明治中期より長野県や北海道などの冷涼な山域を中心に大規模に造林されたことが知られている。同じような環境である会津の山でも比較的よく見る木である。

この道の沿道にはここまでスギ林はなく、造林地はみなカラマツだ。成長の早いカラマツでも、この太さ(太いものは40cmくらい)になるためにはかなりの時間を要するだろう。旧道化後の早い時期に路上にまで植えられたのだろうか。もう道としては使わないという意思表示込みで…?

なんにせよカラマツ林は明るくて、涼しげで、そのうえ下枝が少ないので目通りが良く道が見つけやすいしで、大好きだ。

太いカラマツ林の地面に、車が通ることができる道、すなわち車道の幅を有する道形の痕跡が、確固たるものとして残っている。写真だとこうして補助線を入れないと分かりづらいと思うが、肉眼だと立体的なので凄く浮かび上がって見えてくる。……まあ、この手の道を見慣れた人でないと、これが全然分からないともよく言われるが……。精進すれば誰でも見えるぞ(あまり人生の役には立たない精進だ)。

といったところで、ここが3度目の切り返しだ。廃道の“当然”である荒廃や破壊には陥らず、しかしそれでいてやはり経過した時の長さを十分に意識させる……、なんだか“道の沈殿したもの”を思わせる景色だった。いいかんじ。好き。

また300m近く平和に森の中を東へ向いてトラバースし、7分後、こうして4度目の切り返しに出会った。小峠まで、切り返しあともう1回! 全て順調なり! とても気分良く歩けている。自転車を連れてきても良かったくらいだな。MTBで走っても楽しそうな道だ。勾配が少ないし、倒木のような面倒な障害物も少ない。まあ厳密には完全な廃道というのではなく、林業関係者がたまに入っているからなんだろうけど、おかげでとても歩き易い。

にょっきにょっき!

カラマツにょきにょき。

大規模な石垣、三度現る!

目通し50mは路肩に続いている。ここまでで最大規模の石垣といえるが、これを観賞するベストポジションは……ここではない!

ちょっと、

降りて“見る”が正解。

石垣と橋は下から見るが、鑑賞の鉄則なり。

乱積み最高だぜ! 大好き!! 

この積み方が、芸術的だと思わないか。

さまざまな形とサイズの自然石を、最小限の成形だけでパズルのように積み上げてある。出来るだけ隙間を作らずに積まれる乱積みは、切り込み接(は)ぎと呼ばれる城壁の積み方に由来する日本古来の技法である。しかもただ隙間を作らないだけでなく、「正しい」とされる積み方のルールがいろいろあって見た目以上に難しい。たとえば目地が“田”の字になってはいけないとか、三角の角は下に向けると良いとか、守らないと長持ちしない。石積こそは、重力を操作できない人間が、汗で試行錯誤をしながら100年後の成否を見る、そんな高度なパズルゲームである。

しばし観賞してから路上に戻った。そして、前進を再開するとすぐ、“新たな事件”は起きた。

これは…!

………

ラフレシアの化石?

そんなはずはない!

このテッペンに“ぽっち”が付いた、モザイク模様をした石材による標柱は、今まで色んな所で見た覚えがあるものだ。

この石標の正体は、アレしかない。

水準点だ。

この探索のきっかけとなった、古地形図上の水準点。そのひとつを今、発見した!

この水準点は、探索当時(平成21年)の最新地形図(平成12年修正版)にも描かれており、この図の右から3番目のハイライト部分がそれである。海抜1003.4mの水準点で、たしかに「現在地」付近と思われる位置に描かれている。ただし平成26年に発行された地形図では、この水準点は削除されてしまった(地形図の後継である現行の地理院地図でも削除済)。

明治時代に、はるばる瀬戸内海にある小豆島からこの石標は運ばれてきたのである。全国にある水準点の標石の原産地は、ほぼ小豆島産である(明治29年に水準点の材質は小豆島産を用いることを国が決定している)。また加工も小豆島の香川石材という民間の石材店が代々行っていた(昭和50年廃業)。皆様がもし小豆島に行かれることがあれば、日本中に設置された1万7千本を超える水準点のふるさとであることに想いを馳せてみてはいかがだろう。ちなみに戦前に領有していた外地や樺太などにも小豆島産の水準点は設置されていた。

『基準点成果等閲覧サービス』の画面表示
(一部作者加工)

この水準点について、国土地理院の『基準点成果等閲覧サービス』に記載されている情報はこの通り。

画面に表示された「基準点名」欄の「6698」という数字が、現地の標柱に刻まれていた「明治時代に刻まれた数字」と符合した事に、少なからず感激を覚えた。明治から今日まで日本という国家が継続していることが感じられた。

おっと、忘れちゃいけない。この一等水準点「6698」の存在意義であり成果である「標高」だが、東京湾の平均海水面に抜すること1003.4m! …であり、このことだけを、明治からずっとここで私たちに伝え続けている。

7:26
一等水準点「6698」

水準点があったのは、この九十九折り群の最終コーナーとみられる5度目の切り返しまさにその場所であった。これも地形図の記載とぴったり一致していた。(それにしても、堂々たる、路上のインベタな設置位置だ。もしこれが現代の車道だったら、走り屋に踏まれてしまいそうだ)

そして、ここまで来れば、もう到着と言って良いだろう。 

…小峠は、すぐそこだ。

明治の威風を肩にかけ、まもなく小峠の堀割へと進入する!