本記事では、東北各地で今もなお活躍し、或いは役目を終えて静かに眠る、そんな歴史深い隧道(=トンネル)たちを道路愛好家の目線で紹介する。土木技術が今日より遙かに貧弱だった時代から、交通という文明の根本を文字通り日陰に立って支え続けた偉大な功労者の活躍を伝えたい。

季刊誌「おでかけ・みちこ」2018年9月25日号掲載

 

度重なる不運に翻弄された非業の隧道

青森県の津軽半島は、日本三大美林に数えられる青森ヒバの名産地であり、それゆえ本邦における森林鉄道(※1)発祥の記念地となった。明治42年に本線が完成した津軽森林鉄道は、その後も支線を伸ばし続け、昭和30年代には283キロメートルにもおよぶ路線網で半島の山林をほぼ掌握した。昭和42年を最後に全線が廃止されたが、橋や隧道といった構造物や運材列車など豊富な遺構が残されており、平成29年に東北地方初の林業遺産に認定されている。

かつてこの壮大な森林鉄道の一部として華々しい活躍を期待されながら、呪いのような不運にたびたび見舞われ日の目を見なかった哀れな隧道がある。 磯松(五所川原市)と小泊(こどまり)(中泊町)を結ぶ林道が明治32年に開通し、津軽半島の北端に位置する小泊山国有林からの運材がスタートした。だが、人や牛馬の力に頼った林道は効率が悪く、十分な成果が上がらなかった。そこで、峠の頂上に隧道を掘って勾配を緩くし、同時にレールを敷設して森林鉄道化することで、津軽森林鉄道と接続する計画が生まれた。

計画は明治39年、大正3年、大正15年と三度立案されたが、用地買収の不調などで実現しなかった。四度目は太平洋戦争中の昭和17年で、戦時増伐の重大使命を課せられたことで着工に漕ぎ着けた。峠には全長129メートルの「七影(しちかげ)隧道」の建設が始まった。地質が悪かったため全体に木製の支保工(しほうこう)(※2)を要する難工事だったが、なんとか貫通まで漕ぎ着けた。関係者や周辺住民の喜びは大きく、竣工式の一カ月も前から踊りの練習をする人もいたそうだ。だが、式の4日前に突如小泊側の坑口前で土砂崩れが起きた。大急ぎで復旧に取り組んだが、そうこうしているうちに今度は隧道内部でも落盤が発生し、7人が怪我を負う大事故になってしまった。工事は中断し、そのまま終戦を迎えた。

磯松側坑口跡。苔こけ生むしたコンクリートの坑門が辛うじて口を開けていた

 

昭和21年、今度は復興材輸送のため隧道の復旧が企てられた。崩壊した小泊側坑口の隣に新たな坑口を設け、そこから70メートルの新隧道を掘削して従来の隧道と接続する計画が立てられた。しかし物資不足のためコンクリートが十分に使えず、大量のヒバ材を支保工に用いて土圧(どあつ)から守ろうとした。着工から1年半後、決死の工事は貫通まで残り5メートルというところまで進んだというが、遂に土圧に屈して潰滅してしまった。もはや手の施しようがなく、隧道は放棄されたという。(その後3年がかりで別ルートが建設され、運材の目的は達せられた)

平成18年に跡地を捜索したところ、埋もれかけた坑口跡が発見された。我々が普段利用しているトンネルは成功したものであり、その影には稀に、こんな忘れられない失敗作もある。

落盤のため放棄された小泊側坑道は、陥没地形として僅かに痕跡をとどめていた。中にはおびただしい数の木製支保工が残っていた
マップ

 

(※1)木材の搬出や人員の輸送などを目的として林業用に敷設された軌道のうち、動力車が牽引するもの。全国各地にあったが、トラック輸送におされて廃止された
(※2)土圧を支えるために設けられるトンネル内の支柱