『このレポートは、「日本の廃道」2013年7月号に掲載された「特濃廃道歩き 第40回 茂浦鉄道」を加筆修正したものです。当記事は廃線探索をテーマにしており、不用意に真似をした場合、あなたの生命に危険が及ぶ可能性があります。当記事を参考にあなたが廃道へ赴き、いかなる損害を受けた場合も、作者(マイみちスト)およびみちこ編集室・道の駅連絡会は責を負いません。』

幻の大陸連絡港と運命を共にした、小さな未成線

 

所在地 青森県東津軽郡平内町

探索日 2010/6/6

 

◆ 9:50 隧道東口跡附近

 

 

まず、この区間での探索の結果を先に申し上げると、具体的な未成線の遺構は発見されなかった。次回紹介する現地での聞き取り調査の結果も総合して考えると、茂浦鉄道の工事は、隧道東口より小豆沢側では、行なわれなかったようである。 完成すれば茂浦鉄道最大の建造物となっただろう峠の隧道の工事跡地を後にした我々は、最後に、同鉄道が東北本線と連絡しようとしていた小豆沢地区(正確な連絡地点は事前に分かっていなかった)を目指すことにした。隧道東口から「青い森鉄道」(旧東北本線)の西平内駅まで、開けた谷沿いに約3.5kmの距離があり、町道や農道が通じている。

 

◇ 昭和52年版 航空写真のチェック

 

 

 

この2枚の画像は、昭和52年に撮された航空写真(地図・空中写真閲覧サービス/国土地理院)で見る小豆沢地区の風景だ。

ここには現在ある道路が大体写っているが、その他に、鉄道未成線を思わせるような築堤や、山林を帯状に伐採したような形跡は発見できない。もし、現在の道路とは別のところで工事が進められたとすれば、その痕跡が、谷のどこかに残っていそうなのだが、そうなっていないということは、未着工だったか、あるいは未成線が現在の道路に転用されたかだと思うが、後者っぽい構造や線形の特徴を有する道路も見当たらない。

 

ここからは、小豆沢側には具体的な未成線遺構がないという結論に至るまでの現地探索の模様を、ダイジェストでお伝えしよう。具体的遺構はなくとも、この風景の中に鉄道が計画されたことは事実であり、そうした眺めの中にイフの鉄道物語を思い描くことは、探索者にとって無駄な時間ではない。

 

 

これは、隧道東口から南へ1kmほど下った辺りの風景だ。小豆沢の谷はなだらかで、隧道の近くまで水田や休耕田が連なっている。もしここに鉄道を敷設するとしたら、茂浦側のように勾配緩和のための迂回線形を用いる必要はなく、シンプルに谷沿いを下ることが出来ただろう。この勾配を数字で見ると、隧道東口の標高約60mで、3.5km離れた西平内駅付近が標高10mだから、平均勾配14パーミルとなる。これは鉄道でも甘受できる小さな数字だ。

 

隧道東口と小豆沢集落のほぼ中間地点に、障害者総合福祉センター「なつどまり」がある。昭和28年の地形図では、同じ位置に「国立療養所」と注記された大きな建物群が描かれているのが目を惹いた。

国立療養所は、「結核、精神障害、ハンセン病など特殊の療養を要する者に対して医療を行なう施設」(有斐閣法律用語辞典)として、平成16年まで全国に存在していた国立の医療施設だった。

平内町史によると、この地に昭和47年まで存在した国立療養所の原形は、昭和15年に全国で25番目、青森県では最初に開所した国立傷痍軍人結核療養施設だった。そして同所の開設にあわせて、最寄り駅として、昭和14年10月1日に東北本線上に設置されたのが、西平内駅だという。

茂浦鉄道が結局実現出来なかった小豆沢地区への駅の誘致は、こんな経緯から戦時中に実現していたのだった。

もしも当時、茂浦鉄道が存在していたら、茂浦鉄道上に当初計画にはない新駅が設置された可能性もあったろう。

 

 次回、西平内駅で興奮必至の聞き取り調査へ!

(探索編、次回で最後です)