このレポートは、「日本の廃道」2010年2月号および4月号に掲載した「特濃!廃道あるき vol.26」をリライトしたものです。
当記事は廃線探索をテーマにしており、不用意に真似をした場合、あなたの生命に危険が及ぶ可能性があります。当記事を参考にあなたが廃道へ赴き、いかなる損害を受けた場合も、作者(マイみちスト)およびみちこ編集室・道の駅連絡会は責を負いません。

所在地 山形県飯豊町〜小国町
探索日 平成21(2009)年5月10日・11日

「小国新道」計画の全体像

今回の踏査の結果、地元の手ノ子地区協議会が平成20(2008)年に旧道沿い宇津明神前に設置した案内板(上図)に、「三島新道切割(清明口)」と表記している飯豊町と小国町の界にあたる地点から、案内板がある飯豊町側の落合地区まで、明治期に建造された馬車道と思われる大変勾配の緩やかな約4kmの道が存在した形跡が確認された。

上図にピンクの線で示したのが、今回実踏した区間である。探索のスタート時刻が拙かったために、2日に渡った探索となったが、そうでなくても距離の割に踏破に時間を要する極めて荒廃した廃道だった。通しで歩くには5時間程度を要する。

「東北の道路今昔」より転載。

この廃道の存在は、従来広く公表されていた三島通庸の道路開鑿に関する文献では認識されていないものだった。これまで、三島が明治10年代に開鑿し、明治17年に高橋由一が「三県道路完成記念帖」に描いた峠の切り通し(上図)は、現在「旧々道」として認識されている峠とされていた(「東北の道路今昔」や「高橋由一と三島通庸」の記述)。私も同じように考え、自身のサイト「山さ行がねが」や自著「廃道本」、出演したTV番組でもそのように発表してきた。だがそれは誤りだったのである。

帰宅後、平成8(1996)年に小国町教育委員会が刊行した「小国の交通」という文献を新たに入手した。そこには、今回踏破したルートが、確かに三島通庸が建設した新道であったことが明確に記述されていた。

この本はまだ、三島通庸研究者の間で、あまり知られているとは思われないので、本稿で引用して紹介したい。そのうえで、この新道が短命に終わった理由について、実踏した私の実感に基づいた独自の考察を試みたいと思う。

「小国新道」計画の全体像

三島通庸が山形県令であったのは、明治9(1876)年から15年までで、終盤にあたる明治13年以降は、県第二の都市である米沢を中心とする米沢盆地一帯の交通改善に特に力を注いだ。

その成果は、上図に示した大量の新道として現れた。このうち福島と米沢を結ぶ「万世大路」は、三島の代表的とされる道路事業である。米沢盆地を中心に東西南北へ新道が建設され(東:万世大路、南:会津三方道路、北:羽州街道)、西へのルートを担ったのが、新潟県と結ばれる「小国新道」だった。

小国新道は、盆地西部の商都小松(川西町)を起点に、諏訪峠から手ノ子(飯豊町)へ至り、さらに宇津峠を越えて間瀬(小国町、以降全て)へ通じ、沼沢の先で「片洞門」の難所を越えて小国に達する。さらには新潟県境へ至る、全長約11里、道幅2間の新道だった。

建設決定は明治13年5月で、その後に設計が行われて14年10月に着工している。開通は3年後の17年10月23日で、小国小学校を会場に盛大な開道式が執り行われた。既に三島は福島県令に転出していて参列しなかった。

新潟県側の工事も進められ明治19年に開通すると、山形と新潟の間の最短ルートとして、並行する国鉄米坂線が昭和11年に全通するまで賑わった。大正9年に県道山形新潟線となり、昭和28年には二級国道113号新潟山形線へ昇格し、昭和40年に一般国道113号になっている。

この写真は、小国新道最大の難所といわれた、箱石の片洞門。昭和30年代まで国道として使われていた。

三島の新道工事というと、強権の発動によって地元と軋轢を生むこともしばしばだったが、従来舟運の便もなく県内で最も交通不便な陸の孤島といわれた小国の人々は、多くがこの工事を歓迎し、進んで寄付や夫役にあたったという。たとえば、路線の起点にあたる上小松村の戸長は、建設の決定にあたって、「幸福中ノ幸福、尽スノ義務モ一層重カルベキ義ト存候」と述べ、村界にある諏訪峠の開鑿は村の負担で行いたいとわざわざ県に申し出たほどだった。

宇津峠、「清明越え」の新道

近世以前から、米沢盆地から小国盆地を経由して越後海岸へ至る道は存在した。米沢地方の人々が「越後街道」と呼んだ道だが、別名「十三峠街道」と呼ばれるほど、峠越えに峠越えが次ぐ難路だった。中でも宇津峠は険しい峠であり、明治の小国新道が同じ峠を越えるにあたって、どのようなルートを採るべきか、様々に思案されたに違いない。そしてその結果生まれたのが、今回探索した新道だった。

「小国の交通」によれば、宇津峠の工事は、明治14年10月に小国新道の着工と同時に始められ、積雪が深い冬期は中断しつつ、17年まで掛って開通した。具体的なルートについて、次のように説明がある。

手ノ子より落合に、落合より宇津川の上流(落合川)から清明(小椋家)を経て間瀬に至る街道へと進められた。

手ノ子 → 落合 → 宇津川上流(落合川)→ 清明(小椋家)→ 間瀬 というルートだったことが分かる。落合いから宇津川を遡って清明を通っていることから、明確に今回探索したルートと分かる(清明に小椋家と注記があるのは、もともと木地師の集落だったのだろうか。山中孤立の立地であり、可能性は高い)。

ルートについては、同書掲載の図でさらに明瞭に分かる。

「小国の交通」より転載。着色は著者。

「小国の交通」に掲載されたこの図には、近世に整備された「越後街道」(黄線)、明治17年代に開通した「当初の路線」(赤線)、その後に整備された「県道(小国街道)」(緑線)の3線が、宇津峠の東側で別ルートとして描かれている。このうち赤線が、私の探索したルートに他ならない。緑線は私が「旧々道」と呼んでいた道で、それよりも古い赤線は、「旧々々道」といえる。

私が探索した道は、小国新道の一部として明治17年に開通し、開道式の来賓が大勢、当時としては新鋭の車輌である人力車で通過したそうである。

だが、この新道(清明越え)は、わずか10年ほどで役目を終えることに。

この清明越えの通路は急勾配で迂回となるので、もっと北寄りの鞍部に道を求める工事が進められ、明治27年頃竣功した。

「小国の交通」には、このように書いてある。「急勾配で迂回となる」から、明治27年頃にさらに道を変更したとあるが、このうち「迂回となる」は納得だが、「急勾配」は、実踏した人間として、いささか承認しがたいものがある。

「清明越え」の廃因に関する独自の考察

「小国の交通」は「清明越え」が「急勾配で迂回となる」ために廃止されたとしているが、実際の勾配は、次に示す通り、これを廃止して代わりに整備された道よりも、遙かに緩やかだった。

(海抜490m)→[距離2300m]→(320m)
平均勾配=7.3%

(海抜550m)→[距離4000m]→(海抜320m)
平均勾配=5.7%

こうして比較すると、明らかに「清明越え」の方が、勾配が緩くなるように作られているのが分かる。おそらく三島は、馬車をはじめとする車両交通を念頭にして、このような緩勾配のルートを選んだのだろう。だが、そのために払った犠牲は大きかった。

A→Bと比較し、A→C→Bと辿る「清明越え」は、四角形の3辺をわざわざ迂回する形をとっており、前者の2.3kmに対して、後者は約5kmと、倍以上の迂回であった。当時の通行の多くは車輌ではなく、依然として徒歩だったわけで、旧来の「越後街道」(徒歩のために作られたこの道は急勾配だがほぼ最短距離だった)と比較して、三島の新道は、(歩くには)無駄に冗長で時間を要するから、敬遠されたはずである。

しかも、この道は険しい山腹を長々と横断し、多くの谷を渡る道だった。これは豪雪地において、致命的なミスルートに思える。

雪が降らない薩摩生まれの三島は、雪国にあるべき豪雪に強い道の在り方が分からなかった可能性がある。彼の手足となって現地を踏査したとされる、土木課長・高木秀明もまた、薩摩の人間であった。三島が登用した部下の多くは、南国の人であった。なお、雪に強い山道の鉄則は、急な山腹の横断と谷の横断を可能な限り避け、要所はトンネルとすることだ。また、出来るだけ陽当たりのよい南向き斜面に道を付ける。尾根の近くを通行することも望ましい。これらの理由はもちろん、雪崩と残雪の対策である。

探索中、私は何度も大量の残雪が残る谷の横断を強いられた。いずれの谷も雪崩の巣であり、橋の痕跡は地面ごと削り取られたのか、何一つ残っていなかった。三島の「清明越え」は、雪国の山岳道路としては失格で、短期間で廃道になるべくしてなったのだと思う。

もっとも、三島が何も考えていなかったとは思わない。彼は、山形県を代表する高峰である月山を貫いて、庄内地方と県都山形を結ぶ長大なトンネル(現在の国道112号「月山道路」)の構想を持っていたとされる。また万世大路では、当時日本最長の隧道で峠を貫くという大胆なルート設定で、この道を成功に導いている。雪国においては、長大なトンネルで峠を越える事が望ましいと、理解していたと思われる。

それが宇津峠で実現しなかった理由は、やはり予算不足であろう。沿道住民がいくら協力的だったとしても、沿道の人口が極端に少ない山間部では限度があるし、この道は国道の万世大路より格下な県道だったので、国から多くの補助金を得ることも難しかっただろう。実際、万世大路の道幅は4間だったが、小国新道は2間という、馬車道としては妥協したスペックだった。

今回、長々と歩いたが、石垣や橋台といった、手の込んだ土木構造物を一つも見なかった。これも全体的に低廉に寄った工事であった証しかもしれない。

まとめると、「清明越え」は失敗作だった。原因は、車両による交通を重視し過ぎたために、徒歩利用には不向きな冗長な経路を、豪雪地の道路保全の実情を無視した急な山腹に敷設したことである。

なお、「東北の道路今昔」に、次のような記述がある。

明治19年秋、小国新道が完成して荷車が往来①したが、この峠越えだけは荷車から荷を降ろして運搬したという。また、明治25年頃から馬車②が使用されたものの、やはり馬車を分解③して峠越えをしたという。

同書は、「清明越え」の存在を知らずに書かれているが、それでも②の記述は、ルートの変更があったことを暗示している。また①の記述から、「清明越え」は馬車が通れず、それより小型の荷車も荷を下ろして通過しなければならなかったこと。そして、③の記述によって、改修路も馬車は通れなかったことが分かるのである。

このように車両交通には不適な峠であったためだろう。宇津峠の周辺では、明治末頃に至っても300人を越える背負子が働き、さらに冬期間は囚人を動員した雪踏みが行われていたそうである。そんな昔からトンネル化の要望もあったというから、昭和42年開通の旧宇津トンネルは、世紀を超えた待望だった。

廃道は、求めるものには雄弁に語る。派手な橋や隧道はおろか、ただ一つの石垣すらも認めなかった今回の明治廃道だが、その存在は、宇津峠を巡る厳しい改良史の一節を私に語ってくれたのである。その全ての上に、今の便利な峠道は存在する。

【完】