このレポートは、「日本の廃道」2010年2月号および4月号に掲載した「特濃!廃道あるき vol.26」をリライトしたものです。
当記事は廃線探索をテーマにしており、不用意に真似をした場合、あなたの生命に危険が及ぶ可能性があります。当記事を参考にあなたが廃道へ赴き、いかなる損害を受けた場合も、作者(マイみちスト)およびみちこ編集室・道の駅連絡会は責を負いません。

所在地 山形県飯豊町〜小国町
探索日 平成21(2009)年5月10日

16:40 「三島新道切割(清明口)」

そこ……麓の案内板に「三島新道切割(清明口)」と注記されていた地点……には本当に、三島通庸が作らせ、高橋由一に描かせたようなもののように見える深い切り通しがあった。あってしまった!

ただ予想外だったのは、ここまで私と一緒に来たたくさんの轍の行き先が、目の前の切り通しではなかったことだ。轍はこの深い切り通しの肩を借りるようにして、向こう側へ別のルートで越えていた。この道は地形図にも描かれている「軽車道」であり、稜線上の電波塔(電波塔は2つあるので「電波塔(南)」と表現する)まで登っているようだ。すなわち、現代の道である。

一方で、真新しい「三島新道切割(清明口)」の標柱が、私に対するダメ押しの勝利宣言のように仁王立ちしている掘り割りの路面に、轍は全く見られなかった。

切り通しは、一般的な明治時代の廃道にイメージするものよりも遙かに鮮明だった。両側の法面も中央の路面も、どちらも人工物に特有の直線を維持していた。中央部分の深さは10mくらいで、長さは50mほどある。特筆すべきは、現代の林道にひけを取らない道幅の広さだ。間違いなく車道だった。

私はこの掘り割りの正体について、一気に言い逃れの出来ない状況に追いつめられた。2間の幅を有するこの深い掘り割りには、ここ数年ずっと「三島新道」と呼ばれる道を熱心に追いかけていた私を黙らせる強烈な説得力があった。似て非なるものではない気がしたのである。

これは本当に、私たち・・の敗北なのではないか。

「小国新道」という名前で明治17年に開通したとされる初代の車道は、従来我々がそれと考えていた旧車道、すなわち現在の国道から見たときの旧々国道とは別のものであったのではないか。そしてその初代車道は、開通から僅か10年ほどで廃止された“希代の失敗作”だったのではないか。

めちゃくちゃ「熱い」んすけど…。

ここが本当に三島新道であったなら、高橋由一が見た峠の景色はここだったということになる。

写真は、切り通しの前から振り返って見た小国側の風景だ。正面に見える残雪ある高い山々は、新潟県境に聳える朝日山脈だ。

しかし由一が石版画として残したのは、この優美な山景ではなく、これと反対の飯豊側である。彼はその任務として、美景よりも、三島の作品(すなわち道)を描くことが求められていたのである。

『三県道路完成記念帖(高橋由一)』より「宇都峠切り割り之図」。(『東北の道路今昔』より転載)

掘り割りを自転車に乗ったまま飯豊側へ抜ける。この出口付近のアングルが、由一の石版画と一致していると思うが、完成直後の120年前とは違って視界を遮る緑が多く、さすがに印象が違っている。とはいえ、場所の矛盾を指摘するような違いもない。

堀割を抜けると、道は想像に反して、右へカーブしていた。右、すなわち南である。現在地から見て現国道、旧国道、旧々国道の全てが北にあるのに、この旧々々道にあたるかもしれない道だけが、さらに南へ行こうとするのか。

だが、行き先を不審に思う私に見せつけるように、道自体はなおも鮮明に存在していた。いったいこの道は私をどこへ連れて行こうとしているのだ。これが本当に三島の関与した道なのだとしたら、彼は私をどこへ連れていこうと……。

堀割の前にある飯豊側の山並みを、改めて先ほどの石版画の中にある山容と比較してみた。

……うーむ。

確かに、同じくらいの距離感のところに、似たような形の山があるが、絵と写真を同定できるほどの特徴的一致とは言えない。微妙だな…。

ここで一旦、状況を整理したい。

この時点で、宇津明神前の案内板に描かれていた「三島新道切割(清明口)」というものが実在することが分かった。まだ確かめられていないのは、この切り通しの正体と、切り通しの先の飯豊側の道がどこへ通じているかである。

道の行き先については、次の3つのパターンが考えられる。

1.「清明口」とは小国新道の支線であり、「清明」へ行くための行き止まりの道である。
2.「清明口」は小国新道の本線であり、「清明」を経てから「旧車道」と合流する。
3.「清明口」は小国新道の本線であり、「清明」を経てから、最後まで独自の路線で麓へ下る。

想定される未知の廃道の規模は、1<2<3であるから、時間的に差し迫った現状においては、「パターン1」を推したいのが本音だが、「清明」という現在の地図には影も形もない地点へ行く支線を、三島が本道と別にわざわざ整備したという考え方には、正直無理がある気がする。

ならば「パターン2」か。

これは「パターン2」の推定ルートだ。こうやって地図上に描いてみると意味不明な迂回にしか見えないが、旧車道上の赤い○で囲んだ位置には、大正9年当時に「県道山形新潟線」の最急勾配地点(8分の1勾配)と記録された次の写真のような連続ヘアピンカーブがある。

妥協を嫌った三島のことだ。このような馬車道に相応しくない急勾配を回避すべく、大きな迂回路を選択した可能性があると思う。しかしそれは馬車以外の道路利用者に嫌われる極端な迂回であったため、数年で切り替えられたのではないかという推測が成立する。

「パターン3」は、未知の廃道の規模が大きすぎて簡単には受け入れがたい。そしてルートの想定も難しい。「清明口」の東側には宇津川源流の谷が大きく口を開けており、この川沿いに麓の落合地区から少し道(林道?)が描かれているが、そこに結ぶには落差が大き過ぎるし、従来の説からはかけ離れたルートにならざるを得ない。

行き先を、そして道の正体を確かめるためには、突入するしかないようだ。

現在時刻…… 16:45……
いまから未知の廃道を追いかけて山に入るのは、止めたほうが……。