このレポートは、「日本の廃道」2010年2月号および4月号に掲載した「特濃!廃道あるき vol.26」をリライトしたものです。
当記事は廃線探索をテーマにしており、不用意に真似をした場合、あなたの生命に危険が及ぶ可能性があります。当記事を参考にあなたが廃道へ赴き、いかなる損害を受けた場合も、作者(マイみちスト)およびみちこ編集室・道の駅連絡会は責を負いません。

所在地 山形県飯豊町〜小国町
探索日 平成21(2009)年5月10日

三島通庸みしまみちつねの道を追いかける旅の二巡目で】

明治新政府による日本の国造りを、「鬼県令」や「土木県令」の二つ名で駆け抜けた、三島通庸という薩摩生まれの男がいる。県令とは今日の県知事にあたる役職である。当時の県令は民選ではなく官選で、政治手法も強権的なものが珍しくなかったが、通庸はその手練れで、自由民権運動と特に強く対立した弾圧者の一人であった。

大きな山地によって各県が分断され、政治の中枢からも遠く離れていた東北地方の開発には、まず道路の整備が何よりも必要だ。これを政治的な信念として、大久保利通など政府中央の信任も非常に厚かった通庸は、山形、福島、栃木の三県を県令として歴任した明治7年から18年の間に、これらの県に現在ある道路網の元となった膨大な距離(数百キロ)の車道(当時としては馬車や荷車の通行を想定した道路であった)を、ほとんど強制的な地域住民の徴発や徴税によって速成した。

こうした新道には、後の改築によって棄てられて廃道となったものがたくさんある。そもそも、馬車交通が隆盛だった期間が我が国では非常に短く、すぐに鉄道交通に取って代わられたし、その後は自動車交通が主流となったため、極端に曲折が多い馬車道として作られた通庸の新道は、特に山間部においてそのまま使い続けられるものではなかったのである。

彼が作り、後に廃道となった新道の代表格が、おそらく廃道趣味者なら誰もが名前を聞いたことがあるだろう、万世大路だ。

東北出身のオブローダーである私を育てたのも、通庸の廃道たちだった。平成15年春に初めて訪れた万世大路で、廃道に眠る歴史の旨味を知り、古い技術によって作られた構造物の凄みを知った。そのまま廃道の虜になった。そして、彼が県令として最後に手がけ、明治期最大規模の山岳道路となった塩原新道を平成20年夏に攻略したことで、一応の区切りとした。しかし、これで彼が作った膨大な道の全てを辿り終えた訳ではなかったし、一度は探索した道にも変化が起きる。以前ほど集中的に行くわけではなくなったが、私はいま三島通庸という長い旅の二巡目にいる。

そんな緩やかな二巡目の旅の中で衝撃的な探索をした。平成21年5月のことだ。通算で3度目の訪問となった山形県の宇津峠での出来事であった。

【東北地方有数の廃道累積地、宇津うつ

衝撃的な探索の報告をする前に、宇津峠についてごく簡単に説明しておきたい。

宇津峠は飯豊山地と朝日山地を繋ぐ山脈が、最上水系と荒川水系に挟撃されて最も低く細くなった部分に位置する、米沢盆地西方の峠だ。海抜は約490mで、山形県の飯豊町と小国町を隔てている。現在は国道113号がトンネルで抜けていて、さほどの難所とは思われていないかも知れない。

オブローダー的視点から見た宇津峠は、数世代の旧道が重なりあう東北有数の廃道累積地である。手前味噌で恐縮だが、以前に執筆した「廃道本」(ISBN-10: 440803004X)にこの峠を取り上げた私は、次のように書いた。

この峠に車両交通の先鞭を付けたのは三島通庸である。彼は山形県令時代の明治13年に「小国新道」を計画し、彼が福島県令に転任した後の明治19年に開通した。
(廃道本p.32)

この「宇津峠の車道開削は三島通庸による」という事は広く知られているし、もちろん事実である。

そして、この明治の「三島新道」を「第二世代」として、それ以前に使われていた道が、天保年間に上杉家が整備したとされる「越後街道」である。これは全線を通じて13もの峠があったことから、十三峠街道とも呼ばれる。一方の「第三世代」としては、昭和42年に待望の冬期通行可能な道路として開通した「宇津トンネル」がある。だがこれが手狭となって、平成4年に新築された「新宇津トンネル」が「第四世代」であり、現道である。

私が最初に宇津峠を訪れて「第二世代」と「第三世代」を探索し、「山さ行がねが」でレポートした平成16年当時、現道以外は全て廃道だった。だが、平成19年に再訪してみると、「第一」と「第二」の道が、地元有志の手で刈り払いされて簡単な道しるべまで設置されているのを見た。改めて調べてみたくなったが、この時はたまたまテレビの取材を受けている最中だったので、その時間はなかった。

そして平成21年5月に3度目の訪問を果たしてみると、地元有志による旧道整備はさらに進展して、新しい案内板が増えていた。

その内容が、私を驚愕させた。

【3度目の宇津峠で目にした案内板の衝撃】

三島通庸を巡る旅の二巡目の最中、平成21年5月10日の旅は、山形と仙台を結んだ関山新道(関山峠)の再訪がメインであった。それが少し早めに終わったので、午後には翌日の調査予定地であった会津地方へ向かって車での移動を開始したのだが、その途中で、2年前に目にした宇津峠の刈り払いを思い出し、少しだけ寄り道することにした。

宇津峠の飯豊側の登り口である落合口には、午後4時直前に着いた。もとより長く歩くつもりはないので、別に急ぐことはなかった。

落合口に着いてまず向かったのは、「第三世代」の道のメイン構造物である宇津トンネル(全長915m)の坑口だった。ここは個人的にとても思い入れの深い場所で、電光掲示板を含む近代的な車道が自然に呑み込まれていく現在廃道化進行形の風景が、見るたびに印象を深くするところだ。自分の廃道に対する憧憬の原点とも思える風景なのである。

この時代の行き止りの廃道としては珍しく、封鎖されている坑口の目の前まで車に乗ったまま近づくことが出来た。だが今回は、ここで引き返す。

宇津トンネルに目立った変化がないことを確かめてから、来た道を戻る途中、旧道沿いにある宇津明神という小さな神社の近くで、前回なかった新しい案内看板を発見した。

写真左手に見えるのが宇津明神で、奥の立派な橋は旧道を跨ぐ現国道だ。

16:01 案内板を見た

この2枚の真新しい案内板が、とんでもない事態に私を巻き込む元凶となった…。

2枚の案内板の片方は地図、片方は解説だった。自分が以前、藪に苦労しながら、自転車を押して乗り越えた三島新道(第二世代の道)がどのように地図に描かれ、また解説されているのか「いっちょお手並み拝見」ぐらいの軽い気持ちで、まずは地図の方から覗いてみると…。

ふむふむ…。

地図の主題は、最近地元有志の手により刈り払いなどの整備が行われた宇津峠の「旧越後街道」(第一世代の道)を案内するものだった。現在地の落合口から、宇津峠頂上までの街道筋が赤い線で目立つように描かれ、沿道の幾つかの名所を案内している。また、途中で枝分かれして、峠のそばで再び合わさっている茶色の線には、「旧車道」という注記があるが、これが以前私が探索した「三島新道」のことだろう。

前提:「地図の旧車道=私が探索した三島新道」

旧越後街道とは(少なくとも遊歩道のコースとしては)一部が重なり合っているようだ。

これは「山行が」の読者さんからも報告を頂いているが、現在ではこの「旧車道」も「越後街道」と一緒に刈払われ、私がかつてしたような藪漕ぎをしなくても踏破可能とのことだ。このことは別に「自分の後に道が出来た」わけではないのだが、オブローダーとして、刈り払われる前の道を歩いたことには優越感を憶える。うむ、満足じゃ満足じゃ。良い気持ちになりながら、地図の隅々まで眺めていると…。

ん?

なんだこれ?

⑩ 三島新道切割(清明口)

???

なに…それ…?!?!

三島新道切割? 

そういう文字が、地図の南の端っこの方の行き止まりみたいなところに、ポツンと表示されていた。

どういうことだ?

三島新道切割というのは、この案内板でいうところの「旧車道」の峠(この画像)のことじゃないの?

そこには実際に、いかにも豪胆で直情的な三島が好みそうな、長く深く真っ直ぐに山を貫く掘割りが存在していて、まさに彼の新道建設に対する実行力の象徴のように感じていた。そのことを、自身のサイトである「山行が」ではもちろんのこと、『廃道本』でもそう書いたし、19年に取材されたテレビ番組(NHK『熱中時間』)でも、はっきりとそう案内した。

それがまさか、間違っていた?

いやいやいや!

これは私の独自研究でも独論でもないんだよ。三島道路研究の名著とされ、私も愛読している『東北の道路今昔』や『高橋由一と三島通庸』などの文献も全て、私と同じ論を採っているのだ。「清明(せいめい?)口」なんて場所は、聞いたことが無いぞ。

え? え? え?

地元の人の独自研究? 

おちつけおちつけ!落ち着け自分!そうだ、隣にある解説板を読んでみれば、この案内板にある誤りとか矛盾とかを、ただせるんじゃないのか? 

大変失礼な言い分だが、私もそれなりにこの峠については文献を読んできたし、歩いても来たつもりだ。もちろん地元に一家言はあろうとも、すぐさま、「手ノ子地区協議会」が立てた案内板を鵜呑みにするわけにはいかない。あまりにも従来の説とは違いすぎるし、私は個人的に……他人様にこのことを案内し過ぎた過去がある!

明治に入ってから車道開削が進められ、明治二七年(一八九四)に九十九折りの車道が完成し、昭和四二(一九六七)に旧宇津トンネルが完成するまで利用された。
(解説板内容を一部抜粋)

! ! ! ! !

待ってくれー。置いていかないでくれー。

明治27年に九十九折りの車道が完成した?!

ここも従来の説と違うぞ。九十九折りということは、案内板にある「旧車道」の事だよな。あれは確かに凄い九十九折りの道だ。

でもでも…

『三県道路完成記念帖(高橋由一)』より「宇都峠切り割り之図」。(『東北の道路今昔』より転載)

これは三島の委嘱を受けて彼の新道を描いた高橋由一ゆいちの石版画の一葉で、これを作るための写生旅行は、明治17年の秋に行われたことがはっきりしている。そして、宇津峠(宇都峠)の頂上の切り通しも描かれているのだ。

だが、九十九折りの旧車道が明治27年開通だとすると、その頂上にある切り通しを高橋由一が描けるはずがないのである。由一はどこを描いたの?!

単純に解説板の誤りで、明治27年と17年を誤記しているとか?! 

いや……しかし、地図と解説板の両方が、私の知らない真の三島新道が、旧車道とは別に存在したと主張しているように思えるのだ……。これは本当に、誤りの集合と言えるのか……?

半信半疑だが、私はもはや、数分前までの傲慢さは脱ぎ去った。いや、剥ぎ取られたというべきか。もはやこれ以上の情報を、ここにある少ない図と文字だけから理解することは難しいと理解した。

実際に、案内図が「三島新道切割(清明口)」としている場所へ行ってみよう。

私の目が節穴でない限り、実際にモノを目にすれば、自ずと明らかになるはず。私たち・・と看板のどちらが正しいかということが。

だがその前に、デフォルメされた案内板の地図と、手許の地形図を対照させる必要がある。ここで間違えれば、何が何だか分からない。

慎重かつ迅速に地図の対照を行った結果、疑わしい地点は1箇所に絞られた。

宇津峠の切り通し(案内板の「旧車道」の峠)の南西おおよそ800m、海抜550mの地点に、それらしい鞍部が存在している。ここが、怪しい。

ただ、そこを通る道が描かれてはいるものの、電波塔に至る行き止まりの道であって、辺りに「清明」などという地名も見あたらないし、峠道らしくもない。それでも、小国側から電波塔まで車道が通じているようなので、簡単に行くことは出来そうだ。

行ってみよう!

幻の三島新道、初代車道のヴェールが、いま、私の前に、ぬぎぬぎ……ぬぎぬぎ……