『本稿は、平成25(2013)年6月に「日本の廃道」誌上で公開したレポートのリライトです。 当記事は廃線探索をテーマにしており、不用意に真似をした場合、あなたの生命に危険が及ぶ可能性があります。当記事を参考にあなたが廃道へ赴き、いかなる損害を受けた場合も、作者(マイみちスト)およびみちこ編集室・道の駅連絡会は責を負いません。』

所在地 秋田県北秋田市
探索日 平成24(2012)年12月10日

 ■ 9:30 1度目の渡渉地点 

 歩き始めた地点から300mほどで、土沢右岸の路盤は突然に消失した。そしてこのとき目の前には、白波露わに流れる土沢が横たわっていた。軌道はここで川を渡って左岸へ続いていたようだ。だが、あるべき橋は、橋台さえ残っていない。

 我々は覚悟を決め、膝の上まで水に浸かって徒渉した。既に初雪が降っているという森吉山中。当然のことながら、源流の水は身を切る冷たさである。ネオプレーン装備の我々だったが、それでも渡渉を開始するなり次々と悲鳴が上がった。

 無事に川を渡って左岸に移った笹藪の路盤を少し行くと、突如視界が開けた。そしてそこには少し予想外の光景が広がっていた。
 濡れた土の地面に深く刻まれた、最近のものとは見えない重機の轍。ここがいわゆる“ブル道”であることを物語る存在。

 ブル道!

 全ての林鉄探索者に悲嘆をもたらす、今日一番の残念ニュースである。いったいどこから進入してきたのか判然としない。ここまでの道をブルが通じたとは思えないので、おそらくずっと対岸の山腹に隠れていたのであろう。この神出鬼没ぶりは、林鉄などの比ではない。
 ブル道は残念ながら、遺構を求める林鉄探索者の天敵だ。重機に踏み荒らされた軌道跡にはレールや枕木といった林鉄の遺構の現存は、全く期待できない。論理的には、林鉄も林道もブル道(作業道)も全て林業の輸送施設に過ぎず、その改廃に部外者が情を挟む余地はないと分かっているが、がっかりする心を止められない。

 ブル道の出現は一行に小さくない落胆を生じさせたが、まだ全てが無に帰したと決まったわけではない。この先にも、蹂躙を免れた遺構はきっと残っているはず。そう信じてブル道の前進を再開すると、すぐさま、そんな“残された遺構”が現れてくれた。

見よ! 電信柱の勇姿を! 

 先ほど倒れた姿を目にした廃レールの電信柱が、今度は立ったまま、より往時に近い形で残っていたのである。落胆の直後だけに、余計に嬉しかった。冬化粧の準備を終えた、隙間の多い森の中では、か細い電信柱でさえ、聳える木立の仲間のように、存在感を示していた。

 そしてこの直後、さらなる悦びの声が谷に谺(こだま)した。

 ■ 9:37 2度目の渡渉地点 

 左岸に移って100mほどだが、早くも右岸へ戻るらしく、低い土の築堤が川にぶつかっていった。残念ながら、その先に橋はなく、今度も徒渉を余儀なくされる。
 我々はこの築堤上に、大量のレールが打ち捨てられているのを見つけた。今度は電信柱に転用されたものではなく、路盤から剥がしたままで、回収されなかった廃レールのようだ。その数は………、堆積した落葉から見えているだけでも10本以上! 1本あたり5.5mの長さがあるので(JIS規格品として計算)、仮に10本としても50m分以上のレールだ。

 レール偏愛者ミリンダ卿のワンポイント・レッスン!

 自宅の敷地に、ウン十万をかけて実用トロッコの【レールを敷いてしまった】ほどのレール偏愛男であるミリンダ細田氏は、この土沢支線の廃レールの山を目にするなりコマネズミのように素早く近付いては、懐から巻き尺を取り出して何かを計測すると即座に「10kgレールだすな」と言い放った。

 その速さに一同は呆気にとられたのだが、後に彼が何を見て何を測って即断したのかを教えて貰ったので、既にご存じの方も多いのかも知れないが、この機会に林鉄のレールについて簡単に説明しておきたいと思う。

 林鉄用のレールは、昭和22年の労働基準法の改正に伴い、軌条の規格が労働安全衛生規則に定められ、車両重量5t未満の場合は軌条重量9kg、5t以上10t未満の場合は12kgとされた。従来はこれに準拠しない林鉄が多かったことで、全国的に大量の軌条交換を余儀なくされている。そしてレールの規格は、昭和24年に日本工業規格(JIS規格=現・日本産業規格)が定められたことで、JISに準拠した各種の「軽レール」が使われるようになった。軽レールは林鉄だけでなく、鉱山鉄道や工事用軌道など、普通鉄道以外の一般に軌間が狭い(ナローゲージ)線路で汎用的に用いられている。もちろん現在も(少量ながら)製造されており、細田氏が自宅に敷設したものも新造の6kg軽レールである。
 JISの軽レールには、ここに掲載した表の通り、22kgレール(1mにつき22kgの重さがある)から、6kgレールまでの6種類がある。当然、重くて大きな規格(高規格)ほど、耐荷重性や走行性に勝るが、経済的には不利となる。
 6種類とも林鉄での採用例が確認されているが、一般的に幹線的な路線では12kg~9kgを、支線でも機関車が入線する路線では9kg、手押し軌道などの補助的な路線で6kgを用いたケースが多い(昭和22年以降は9kg)。したがって、廃レールを調べる事で機関車入線の有無や、敷設時期を、ある程度推理可能である。

 JIS軽レールの寸法上の特徴として、レールの高さと底面の幅が一致している事が挙げられる(この画像のh=pとなる)。そのため、細田氏がやって見せたように、物差し一つで正確に規格を知る事が出来るという。

 このようにして彼は瞬時のうちに10kgレールであると判断したのだが、「昭和35年3月31日現在 全国森林鉄道一覧表」(『汽車・水車・渡し船』(橋本正雄著)収録)は、土沢支線で用いられていたレールを9kgのみとしている。だが、すぐ隣にある粒様分線では9kgと10kgが用いられていたとあり、今回これが測定ミスでなければ、土沢支線でも10kgレールが用いられていたのかもしれない。

 思いがけないほどの大量のレールに、ブル道の傷心を癒した我々は、続いて本日2回目の渡渉に挑んだ。
 1度目もそうであったが、土沢は水が冷たく水勢が強いというだけでなく、豊かな自然環境を象徴するかのように、“ぬめり”が強かった。そのため、相当に注意しないと、派手にすッ転んで、撮影機材を駄目にしかねない怖さがあった。

 2度目の渡渉地点は、軌道の2度目の架橋地点でもあり、川の中には太い橋材の一部などの残骸が散乱していた。

 渡った先の右岸にも、ブル道による破壊を免れた玉石積みの低い橋台が、辛うじて原形を留めていた。また、レールの残骸は、この右岸にも残されていた。まさかと思うが、ブル道が入るまでは、レールがそのまま敷かれていたのだろうか…。だとしたら、ますます悔やまれる。

 右岸の路盤(=ブル道)上に、こんな得体の知れない、ゴムかグミのような物体が、一つ転がっていた。 基本的に私は、山深い所で「正体不明の不定形物体」に出会った場合は、「全て粘菌である」という立場を取っているので、今回も粘菌説を取りたいが、独特のひんやり&ぐにょっとした感触は、忘れがたいものがある。

 対岸の左岸斜面は、河床から尾根まで突き上げる巨大な一枚岩となった。これぞ森吉山地の渓谷美を象徴する風景として内外に誇られる、スラブである。隣の粒様沢も全体的にスラブの殿堂であるが、さらにその隣にあるのが毎年大勢の観光客が訪れる有名な小又峡だ。全てスラブに支配された巨大なナメ谷だが、土沢や粒様沢は全く観光化されていない。

 対岸のスラブを花火でも見るかのように仰ぎつつ、川より少しだけ離れた浅い掘割の軌道跡を行く。残念ながらブル道に蹂躙されてはいるが、軌道時代の雰囲気が濃い掘割である。

次回、大人数を活かした“探索技”が炸裂する?!