『このレポートは、「日本の廃道」2013年7月号に掲載された「特濃廃道歩き 第40回 茂浦鉄道」を加筆修正したものです。当記事は廃線探索をテーマにしており、不用意に真似をした場合、あなたの生命に危険が及ぶ可能性があります。当記事を参考にあなたが廃道へ赴き、いかなる損害を受けた場合も、作者(マイみちスト)およびみちこ編集室・道の駅連絡会は責を負いません。』
【机上調査編 第2回】より、前述の「日本の廃道」では未公開の、完全新規の執筆内容となります。
幻の大陸連絡港と運命を共にした、小さな未成線
所在地 青森県東津軽郡平内町
探索日 2010/6/6
【机上調査編 お品書き】
第1章.会社設立と計画
第2章.工事の進捗と挫折
第3章.復活の努力と解散(←今回)
第3章.復活の努力と解散(続き)
東津軽鉄道計画ルート検証 その3(小豆澤越隧道)
今回は、峠の隧道に関しての総集編としたいが、新情報もある。
峠の隧道は、現地探索において私が最も興味を引かれた存在だ。2010年6月に行った現地探索の模様は、東口(山口側)は本編第12回、西口(茂浦側)については本編第6回にそれぞれ紹介したが、いずれも深い掘割りの奥に土斜面の行き止まりがあった。明らかに人工的な掘割りが現存しているので、坑口前まで土木工事が進められていたと断定できるが、あるべき坑口は口を開けておらず、果たして地中での掘鑿がどの程度進んでいたのかは分からなかった。
この点は帰宅後の机上調査で明らかになった。会社側(茂浦鉄道株式会社)が鉄道院に申告した、着工1年後の大正2年11月時点での工事実況調書によれば(机上調査編第9回)、この時点で隧道工事の進捗率は55%であった。その後は工事の進捗がなく、同社は免許返上となるが、大正6年の東奥日報の記事(机上調査編第14回)に、やはり会社側からの伝聞情報として、「墜道の如きは遠からず貫通の予定なりという」とあるし、茂浦鉄道の復活を目指す東津軽鉄道の免許取得に関係して大正10年に鉄道省の技師がまとめた復命書(机上調査編第17回)にも、「高森山の隧道も一部崩壊せるを以て修繕には又相当費用を要すべき」とあるなど、いずれも隧道工事が地中へ相当進んでいたことを物語っている。…貫通はしていなかったようだが。
現在、この隧道が開口していない理由は、長期間の放置のために自然に崩壊して埋没したか、工事中止後に危険防止のため入口を埋め戻したかのどちらかだろうから、未だ地中には崩壊を免れた空洞が残っている可能性は高いと思われる。大正時代に掘られた“幻の隧道”が、いまも地中に眠っていることを想像するだけで私は鳥肌がたつ。
隧道の規模についても、これまでの机上調査で明らかになっている。茂浦鉄道が着工前に鉄道院に提出した施工認可申請書(机上調査編第7回)に含まれていた「隧道表」により、長さ594呎(フィート)=約181mで計画されていたことが分かった。
そしてここからは新情報。
東津軽鉄道が大正13年に鉄道省に提出した工事施工認可申請書(結局この申請が認可されず同社も免許返上となったのは既述の通り)に含まれる工事方法書や図面類から、茂浦鉄道時代には分からなかった峠の隧道に関する新情報がいくつも判明した。
画像は、工事方法書の一部で、項目ごとに設計の要点をまとめた文書である。これと後述する各種設計図面がセットになっているのだが、茂浦鉄道のときには残念ながら図面は鉄道省文書の中に残されなかったので見ることが出来なかった。しかし今回の東津軽鉄道に関する鉄道省文書には、図面もちゃんと収録されていた。前回使った実測平面図や縦断面図も、そうした図面の一部だった。
工事方法書の「隧道」の欄には、次のようにあった。
十、隧道
(イ)各其地質ニ依ル施工断面
一、排水渠ノ構造ハ別紙第六號之一図ニ拠ル而シテ隧道内ニ貳ヶ所ノ待避所ヲ設クルモノトス
(ロ)坑門
一、構造ハ煉瓦積トス
そして、次に掲載するのが隧道に関係する図面の一部だ。
ここにいくつかの断面が描かれているが、上段の左右(A・B)は完成形の2つの断面を示している。インバート(洞床部分の巻立)の有無とアーチ部分の煉瓦の厚さに違いがあり、Aは「煉瓦五枚巻」、Bは「煉瓦四枚巻」で、インバートの有無と合せて、地質が軟弱な部分ではA、そうでない部分はBとしてコストダウンを図る計画だったのだろう。なお、アーチは煉瓦だが、側壁は場所打ちのコンクリートになっており、いかにも大正時代後期の隧道らしい構造だ。断面の具体的な数字は小さくて読み取れないが、次に画像を挙げるような当時の一般的な単線非電化の鉄道用隧道のサイズと大差はないはずだ。
また、中段と下段の断面は、1→2→3→4の順序で完成に近づいていく、工事中の掘鑿方法の図である。これを見ると、最終的な完成断面の上半分に導坑を掘り、それから下半分に掘り広げつつ巻き立てを行う、わが国の伝統的な頂設導坑先進工法(日本式工法ともいう)での工事を予定していたことが分かる。
したがって、もしも隧道内部にアクセスできたとしたら、奥の方では本来の洞床よりも高い位置に小さな断面の導坑だけが存在する状況なのかも知れない。図面から、もう見えない地中に思いを馳せてしまう。
これは近傍にある煉瓦隧道の実例である。東北本線の西平内~浅虫駅間にあった旧土屋隧道の坑門で、明治24年の東北本線(当時は日本鉄道線)開業当初から昭和40年代まで長く使われていた。
本隧道は煉瓦隧道の中でも非常に凝った坑門のデザインを持っているが、アーチ部分の煉瓦の巻き厚は4枚である。東北本線に較べれば格下の支線的性格を持った東津軽鉄道の隧道が、コストが大きな煉瓦五枚巻を予定していたというのは、地質の悪さが窺える。
なお、東津軽鉄道の隧道も煉瓦積みの坑門を予定していたと工事方法書にあるが、坑門の図面はなく、果たしてどのようなデザインのものになったかは、設計者も既に世にないだろうから、永遠の謎である。しかしきっと会社としては、同社を象徴するような凝ったものを作りたかったと思う。
これは建設予算書で、総工費553,327円の項目ごとの内訳がまとめられている。そしてこの「隧道費」の項目に、なんと「小豆澤越隧道」という初めて目にする隧道名があった。
茂浦鉄道時代の資料には隧道名がなく、これまで名称不明の隧道だったが、初めて正式名称らしいものを知ることが出来た。小豆澤(沢)は、隧道東口や起点の山口集落がある現行の大字名で、隧道を越えた先の大字茂浦と対になる地名だ。茂浦から小豆沢に越える峠に掘られる隧道に相応しい名だ。
そしてこの予算書にも、隧道の全長は594呎とあって、茂浦鉄道のときと全く同じ数字である。こうしたことからも、東津軽鉄道が茂浦鉄道の計画をかなり忠実に再現したものであったことが窺える。
小豆澤越隧道の建設費は77万円余りに達していて、レールや車両や埠頭の建設費までを全てをひっくるめた総工費の約7分の1が、たった180mの隧道に費やされる計画だった。こうした面からも、小豆澤越隧道の完成は、事業の成否を占う重要な仕事であったはずである。茂浦鉄道が初年度の工事で5割以上の進捗率を見せた項目は、隧道の他は溝渠だけだったが、これらはいわゆる難工事に属するもので、難しい工事を先行するのは今も通用するセオリーである。
以上、現地調査では2つの凹地でしかなかった“幻の隧道”に関する机上調査のまとめである。これまた、私にとっては忘れられないトンネルになった。
次回、茂浦側の現地調査で目にした未成線の風景を、図面により検証していく。