『このレポートは、「日本の廃道」2013年7月号に掲載された「特濃廃道歩き 第40回 茂浦鉄道」を加筆修正したものです。当記事は廃線探索をテーマにしており、不用意に真似をした場合、あなたの生命に危険が及ぶ可能性があります。当記事を参考にあなたが廃道へ赴き、いかなる損害を受けた場合も、作者(マイみちスト)およびみちこ編集室・道の駅連絡会は責を負いません。』
【机上調査編 第2回】より、前述の「日本の廃道」では未公開の、完全新規の執筆内容となります。
幻の大陸連絡港と運命を共にした、小さな未成線
所在地 青森県東津軽郡平内町
探索日 2010/6/6
【机上調査編 お品書き】
第1章.会社設立と計画
第2章.工事の進捗と挫折
第3章.復活の努力と解散(←今回)
第3章.復活の努力と解散
免許 明治44年6月26日
施工許可 大正元年11月21日
工事竣工期限 2年11月13日
第1回延期期限 3年11月13日
第2回延期期限 4年11月13日
第3回延期期限 5年11月13日
第4回延期期限 6年11月13日
免許失効 7年2月2日
茂浦鉄道の終焉と訃報
茂浦鉄道は大正7年2月2日に斃れた。同じ年の5月と11月には、同社を支えた二人の実業家の訃報があった。日向輝武(ひなたてるたけ)と佐和正(さわただし)である。
日向は茂浦鉄道の初代社長で、会社設立当時の10人の発起人の筆頭でもあった。この長いレポートの中でも最初のうちよく登場していた。しかし、大正4年7月に任期満了で退任したが、彼の個人的事業の失敗のため会社が損害を蒙ったとして(その実態はよく分かっていないが)、同年10月の臨時株主総会では名指しで責任を追及されている。
彼は明治3年に群馬県で生まれた。21年に渡米し、大陸移民会社を作り貿易に従事、31年に帰国。京浜銀行常務、人民新聞社長などを務めた。34年日本広告(現電通)初代会長。35年衆議院議員となり当選5回。《日本人名大辞典》
彼が茂浦鉄道創立の中心的人物となった経緯は記録にないが、貿易に精通した経歴や、政治手腕を買われての大役であったろうか。しかし、大正7年5月28日に48才の若さで死去した。
佐和正も10人の設立発起人に名を連ねていた人物である。日向ら3人の初代取締役の満期退任により、新たに取締役となったのが彼と、宮城島庄吉、安田要六という3人で、佐和が新社長に就任した。設立発起人からの起用は彼だけだった。会社はこの大正4年7月に体制の刷新を試みた模様で、佐和は会社の短い後半生の主となった。
彼は天保15(1844)年に仙台藩士の子として生まれ、維新後警察官となり警視にすすむ。その間ヨーロッパの警察を視察。明治22年内務書記官から青森県知事となり、7年間の長期にわたって県治に手腕を発揮した。29年依願によって退任。後に日本赤十字社理事に就任した。《日本人名大辞典》
彼の場合は経歴からして東北地方や青森県と関わりが深く、茂浦鉄道の発起人から社長となった背後もなんとなく想像しやすい。しかし、年が親と子ほども離れている日向との関係や、どちらが(あるいは他の8人の発起人の誰が)最初に茂浦に鉄道を敷設することを考え出したのかなど、情報が乏しく何も分からない。同年11月6日に死去。74才だった。
Reborn 東津軽鉄道の誕生
大正11年6月21日の官報に、前日に鉄道敷設免許状を新交付された3つの鉄道が掲載された。茨城県の行方鉄道、千葉県の銚子鉄道、そして青森県の東津軽鉄道。
東津軽鉄道株式会社発起人宮城島庄吉外6名に対し鉄道敷設免許状を下付せりその起業目論見の概要左の如し
鉄道種別 蒸気鉄道
軌道幅員 三呎六吋
線路両端 青森県東津軽郡西平内村大字山口 ~ 同郡同村大字茂浦
延長哩程 五哩
建設資金 五十万円
旧茂浦鉄道の専務取締役であった宮城島庄吉外6名に対して、山口と茂浦を結ぶ鉄道敷設免許が公布された。 復活だ!
新会社「東津軽鉄道」設立の背景と、その目論見に迫る!