『このレポートは、「日本の廃道」2013年7月号に掲載された「特濃廃道歩き 第40回 茂浦鉄道」を加筆修正したものです。当記事は廃線探索をテーマにしており、不用意に真似をした場合、あなたの生命に危険が及ぶ可能性があります。当記事を参考にあなたが廃道へ赴き、いかなる損害を受けた場合も、作者(マイみちスト)およびみちこ編集室・道の駅連絡会は責を負いません。』

幻の大陸連絡港と運命を共にした、小さな未成線

 

所在地 青森県東津軽郡平内町

探索日 2010/6/6

 

◆ 8:07 茂浦沢の溝橋跡

 

 

溝橋発見!

 

 

出発前に『幻の茂浦鉄道』の記事で見た、茂浦鉄道に残されている、おそらく最大の遺構。それがこの茂浦沢を横断する地点に、築かれていた! 我々一行は、ついにその場所を、つきとめた!

 

これが「溝橋」である。溝橋とは、地中や盛り土中に設けられたトンネルのことで、水路や道路や鉄道を相互に立体交差させるための構造物、つまり橋の一種である。近年ではボックスカルバートと呼ばれることが多い、ごくありふれた土木構造物であるが、建設された時代や規模によっては、貴重な土木遺産や近代化遺産とされることもある。

今回発見された茂浦鉄道の溝橋も、明治末頃の建造物である可能性が極めて高く、開業して社会の役に立てなかったという気の毒な負い目はあるにしても、なおも遺産的価値を有することは間違いない!

 

 

 

コンクリート製である溝橋の入口は、まるで隧道の坑門だった。通されているのが小さな沢だから、一般的な道路や鉄道の隧道のように断面は大きくないが、それでも人が歩行できる幅と高さがある。だからこれを鑑賞することは、隧道鑑賞に通じる面白さがあった。

設立から数年で徒花に散った地方の弱小私鉄が、普通は人の目に止まらない河川上に建設した坑門にも拘わらず、明確な装飾の意欲が見て取れた。そこに私は、かつての鉄道事業が燦然と輝かせていた眩しい華やかさを感じた。誇りを見た。

その意匠自体は、極めてシンプルだ。場所打ちらしきコンクリートの表面に、アーチ環と要石の形状を象った彫りが刻まれていた。また、坑門の上部には笠石を模した凸部があった。加えて、坑門全体に、数本の水平線が等間隔で薄く刻まれていた。

これらの意匠を鑑賞できるのは、古さや立地状況を考えれば特筆すべきレベルで、保存状態が良好だったからだ。これが明治末期のものであるならば、当時は場所打ちコンクリート打設の技術的な黎明期であり、橋脚などではそれなりにあるが、坑門工はかなり珍しい。にもかかわらず、意匠の溝や角の欠けもなく、驚嘆すべき良好な保存状態だった。本当に、それほど古いものかと、疑わしく思えるほどに。

 

 

これより、溝橋内部の探検を行う! 先ほど、人が余裕で通れるサイズがあると書いたが、ここは川であり道ではないので、水と一緒に歩くことになる。足を濡らすのはやむを得ない。

中に入ると、べた塗りされたコンクリートのアーチと垂直の側壁に取り囲まれた。水が勢いよく流れる洞床は、インバートの曲線がそのまま出ていて、コンクリートにはいくらか亀裂があったが、破れてはいない。総じて、洞内も保存状態が凄まじく良い。特にアーチなどは、打設直後のように真っ白だった。本当に建設から100年近い月日が経過しているのか、疑わしいほどだが、この暗渠が茂浦鉄道の建設とは無関係に建設されたとは考えにくいし、茂浦鉄道が実際は最近に建設されていたなんてことは一層考えにくい。可能性があるとしたら、内壁を後に修理したことだ。未成線の暗渠であっても、崩壊して川をせき止めれば流域にとって大問題であり、この暗渠がいまも河川行政の管理対象になっている可能性は高いだろう。

 

 

ハンドルネーム「現場監督の中村氏」も、ハンドルネームから分かる本職の知見から、この内壁コンクリートはそれほど古いものには見えないと疑問を呈していた。

 

 

内壁がボコボコしていて、アーチの曲線が上手く出ていない箇所があった。これはさすがに構造物として美しくない。人目に付く場所ではないので、とやかく言うべきではないだろうが、何か表面に凹凸がある部材(例えばトタンとか)を型枠代わりにして、コンクリートを流し込んだのだろう。いよいよこれは明治の工事っぽくはない気がする。

 

 

暗渠のスペックは、全長約30、アーチ中央部の高さが2.2m、幅は2m程度である。北から南へ緩やかな下り勾配が付けられており、常時水が流れている。そして辿りついた南口は水抜けがやや悪く、水深20cm以上で水没していた。

スペックに関しての注目点は長さだ。上にある路盤の幅を3mと仮定し、おおよそ10倍の底辺幅を有する大きな台形断面の築堤が計画されていたと判断できる。このとき、築堤の法面の傾斜角を30度と仮定すれば、高さは約8mで、45度なら13mと計算できる。しかし、現状の土被りの高さは、これらの数字より遙かに低い5m程度である。これは、現在の築堤が、あるべき完成形ではないことの一つの証拠である。

 

 

築堤が未完成であるという、より確実な証拠が、南側(下流側)坑門附近に存在していた。

ここでは築堤の法面から、本来は地中に埋設されているべき暗渠の外壁が露出しており……

 

 

その露出部は、こんなにも長い!

これは本来埋設されるべき部分であるだけに、築堤は盛り土の途中で、未完成のまま建設中止されたことを強く示唆する。

 

 

紹介が前後したが、これが南側の坑門である。坑門上部にあるべき土被りが少なく、スカスカな印象だが、未成の証拠と私は見る。坑門自体は北口同様、とても良く原形を留めていた。暗渠の内部については、後年に補修を受けた可能性が高いと思うが、両側の坑口は、当初のものがそのまま使われていると私は思う。

 

 

 

 次回、溝橋から茂浦集落へ、未解明区間を進む!