本記事では、東北各地で今もなお活躍し、或いは役目を終えて静かに眠る、そんな歴史深い隧道(=トンネル)たちを道路愛好家の目線で紹介する。土木技術が今日より遙かに貧弱だった時代から、交通という文明の根本を文字通り日陰に立って支え続けた偉大な功労者の活躍を伝えたい。
季刊誌「おでかけ・みちこ」2019年9月25日号掲載
5本のトンネルが公園の地下にひしめく
交通は、しばしば人体の血流にたとえられる。血流が生命活動に不可欠なように、交通は社会の存続に不可欠だ。今回紹介する徯きみ后まち阪ざかは、人体なら頸動脈にも相当しよう。ここは秋田の交通に不可欠、替えの効かない要部である。狭い範囲に5本のトンネルが並行する密度は、東北随一だろう。
徯后阪は、白神山地の支脈が鋭い岩稜となって米代川に落ち込む地点にある。ここは古くから羽州街道一の難所といわれ、陸路の険しさから、多くの旅人が、「一里の渡し」と呼ばれた渡し船を利用した。
最初の車道は、明治14 年の明治天皇東北巡幸を迎えるために、地元の人々が切り開いた。頂上の切り通しの手前に、「明治天皇御賜名徯后阪」と刻まれた碑がある。飛脚によって運ばれた昭憲皇太后のお手紙が、ここで天皇をお待ちしていたことで、翌年、それまで名前のなかった新道に「徯后阪」の名が与えられた。
明治22 年、切り通し直下に全長75 mの「徯后阪隧道」が完成し、九十九折りの急坂を通らずに済むようになった。徯后阪の最初の隧道だったが、なんと現役である。昭和27 年に国道7号として大改修され、昭和48 年には歩行者用の「きみまち坂歩道トンネル」が増設されるなど、大きく姿を変えはしたが、いまも県道として活躍を続けている。おそらく東北地方最古参の現役道路トンネルである。
奥羽本線もここを通った。明治34 年、道路山側に完成した2本のトンネルを、蒸気機関車が走り始めた。昭和46 年に奥羽本線の複線電化のため、山側に「きみまち坂トンネル」が誕生したことで、この2本は役目を終えた。「小繋第4隧道」はいま、草木の間にひっそりと黒い口を開けている。だが、「小繋第3隧道」は、それとは分からない姿になって生きている。
明治生まれの徯后阪隧道は、交通量増加の一途を辿った昭和40 年代の国道7号において、致命的血栓の如き隘路になっていた。その抜本的対策として計画されたのが、現在の国道7 号「きみまちトンネル」だった。だが、当時既に鉄道と道路の5本のトンネルが狭い範囲にひしめいていて、そこに新トンネルを割り込ませるのは、技術的にも工事中の交通確保の面からも容易ではなかった。そこで技術者たちは考えた。廃止されたばかりの「小繋第3隧道」を、拡幅のうえで道路トンネル化し、それに新トンネルを地中で継ぎ足すことで、全長516mの1本のトンネルを造り出すことにしたのである。大変な難工事だったが、昭和54 年に無事完成した。
風光明媚な公園として知られる徯后阪の地中には、このような交通史上の創意と工夫が張り巡らされている。そして未来へと続いていく。