本記事では、東北各地で今もなお活躍し、或いは役目を終えて静かに眠る、そんな歴史深い隧道(=トンネル)たちを道路愛好家の目線で紹介する。土木技術が今日より遙かに貧弱だった時代から、交通という文明の根本を文字通り日陰に立って支え続けた偉大な功労者の活躍を伝えたい。

季刊誌「おでかけ・みちこ」2018年6月25日号掲載

 

東北の玄関口にあった、日本最古級トンネル

東北と関東を分ける勿来関(なこそのせき)は、古来多くの歌に詠まれた著名の地だが、ここが全国に誇る“トンネルの名所”であったことは意外に知られていない。

享和元年(1801)に東北地方の測量のためここを通った伊能忠敬は、「行路切通(※1)ニて」「誠ニ穴ぜんぢゃう(※2)と申程の事ニ候」(伊能忠敬書状)と書き残している。全国を旅した彼の目にも、ここにあった2本のトンネルは奇異な存在として映ったようだ。江戸時代は道路トンネルが極めて珍しい存在だった。昭和初期に出版された『明治工業史土木篇』は、近世に作られた現役のトンネルは全国に6本しかないと書いている。そのうち2本が勿来の地にあった。

昭和初期まで平潟洞門が存在していた切り通し
昭和初期まで平潟洞門が存在していた切り通し。その後も昭和30年代に現在の国道が作られるまで、国道6号として
東北地方の玄関口を勤めた

 

この交通史上における一大偉業の跡は、陸奥と常陸の国境を受け継ぐ県境上に、深い掘り割りと立派な碑いしぶみという形で今も残っている。安永7年(1778)に建立された碑は、題額に「平潟(ひらかた)洞門碑銘」とあり、洞門建設や建碑の経緯が漢文で書かれているほか、裏面には関係者の名が刻まれている。おそらく日本最古の道路トンネルに関する開通記念碑だ。

平潟洞門の碑
おおよそ240年前に建てられた「平潟洞門の碑」。
洞門建設の経緯のほか、江戸や京都など全国主要地までの里数が書かれているのが面白い
地図

同碑によれば、洞門は安永3年(1774)9月に起工し、翌年6月に完成した。江戸時代生まれのトンネルとして、最も有名かつ最古といわれる九州耶馬溪の「青の洞門」よりは25年ばかり新しい。洞門の規模は長さ約27メートル、幅約3・6メートル、高さ約3メートルで、馬がすれ違う際に頭が天井につかえてしまうと伊能の記録にはある。

洞門建設の中心となったのは、常陸国平潟村の人々だったようだ。山に囲まれた天然の良港である平潟は、江戸時代初期に仙台藩が江戸に運ぶ藩米の中継港として築港し、幕府公認の東廻航路寄港地として栄えた。しかし、陸奥国九面村(ここづら)との間を隔てる坂道が険しく、陸路には恵まれなかった。そこに洞門を掘り抜くことで、物貨集散地としての一層の繁栄を願ったのである。

数年後には九面村内の難所にも長さ約38メートルの洞門が貫通し、浜街道(水戸~磐城~岩沼)を行く旅人の多くが、従来の「勿来切通」を越える山道ではなく、洞門経由の新道を利用するようになった。この道は明治に入って国道となり、昭和初期に自動車交通を迎えるにあたって、狭隘で崩落の危険もあった2本の洞門は撤去された。

なお、浜街道の勿来切通も、初期には洞門だったという記録が残る。慶長年間(1596~1615)に近在の豪商が洞門を貫通させたが、狭隘だったため承応元年(1652)に改めて切り通しになったという。こちらも現存はしないが、「青の洞門」より遙かに古い道路トンネルの記録である。

 

(※1)切り通しはトンネルに限らず、地面を掘り下げて通した道全般をいう
(※2)穴禅定。洞窟に籠もって行う仏教の修行