本記事では、東北各地で今もなお活躍し、或いは役目を終えて静かに眠る、そんな歴史深い隧道(=トンネル)たちを道路愛好家の目線で紹介する。土木技術が今日より遙かに貧弱だった時代から、交通という文明の根本を文字通り日陰に立って支え続けた偉大な功労者の活躍を伝えたい。

「michi-co」2017年3月25日号連載記事

 

開通当時、東北地方で2番目に長かった

広大な北上山地を縦貫する国道340号が、宮古市和井内から岩泉町大川へ越えるところに、押角(おしかど)峠がある。標高は644メートルと特別高くはないが、山懐の深さは折り紙付きといえる。

峠の歴史は深く、江戸時代に南部藩が編纂した地誌『奥々風土記』に、「雄鹿戸山 宮古ノ里の西、群山の中に立り。此嶺上則大道にて(略)いたく難所なり」とある。『岩泉地方史』によると、この峠は南部藩が定めた公式の通路であったが、牛馬は越えるのが難しいため、岩泉と宮古を結ぶ御用でも、普段はここを迂回したという。

現在の国道は、押角峠を直下に掘られた雄鹿戸隧道で抜けている。トンネルの坑門は、コンクリートブロック造りの古風な城塞風で、四周の深山に文明を誇示するかのようだ。昭和10年(1935)開通、長さ580メートル。岩手県内の道路トンネルとしては戦前を通じて最長で、現在も国道の第一線で活躍するものでは、全国最古級かつ最長級の逸品だ(このことはあまり知られていない)。

 

雄鹿戸隧道の南口(宮古側)全景。ここに立って眺める峠の表情が好きだ。隧道の誇らしい気分が、もうこれ以上登らなくていいという優しさが、嬉しい

 

標高644メートルの押角峠頂上。私は宮古側から上り、写真奥の岩泉側へ越えた。岩泉側はとかく距離が長く、しかも途中から土砂降りに遭った苦い思い出がある

岩泉の交通を近代化させた、偉大な隧道

岩泉と宮古を結ぶ峠として昔から認知されながら、険しさのため利用を妨げられてきた押角峠。現在もトンネルの上には、勾配こそ緩やかだが、うんざりするほどの長い廃道が残っている。明治42年(1909)に下閉伊郡が郡道として建設し、大正10年(1921)には県が改良を行なった旧県道の跡だ。大規模新道だったが遂に自動車は通れず、この峠を活用するには、トンネルが必須と結論付けられる結果に終わった。

雄鹿戸隧道を含む現在の道路は、岩手県が国の補助を受けて、昭和8年(1933)から3カ年の継続事業で開通させたものだ。当時は県道岩泉宮古線といったが、建設されたトンネルの規模からして国道であっても難しい、格下の県道としては異例の大事業であった。

これが実現した背景には、地元出身の県会議員の政治力もさることながら、次のようなことがあった。当時の岩泉地方には、明治乳業岩泉工場や岩泉製紙工場など大企業の工場が立地し、経済的に豊かであった。一方で交通不便のため、販路に窮していた。そこに、トンネル建設の条件とされた高額な地元負担金の醵出能力と、道路建設の動機があったとされる。

国道でも真っ暗なトンネルが多かったその当時、雄鹿戸隧道では開通当初から煌々と電灯を点し、不夜城のようであったという。これも当時の繁栄の様を伝えるエピソードだ。

大型車も通行できるトンネルの開通は、国鉄山田線の茂市駅開業(昭和9年)と相乗して、この地方の人と物の輸送を革新した。

 

さまざまなサイズのコンクリートブロックを緻密に積み上げて造られた、荘厳な坑門。中央に填(は)め込まれた扁額には、力強い筆致の隧道名と県知事名の揮毫
旧道には、立派な石垣が残っている場所もあった。石垣上が路面であるが、育った木の太さに経過した時の長さを感じる
宮古側の峠道風景。この道を岩泉線の代替となるJRの路線バスが運行している。岩泉から茂市までの所要時間は、鉄道時代の約50分からほぼ倍になった

完成待たれる新トンネル

長命を誇る雄鹿戸隧道だが、2020年度には新しいトンネルへ役目を譲る計画だ。新しいトンネルは、平成26年に廃止された岩泉線の押角トンネルを道路用に拡幅改良するという、珍しい工法で工事が進められている。押角トンネルは、耐火粘土の輸送を目的に大戦中に建設が始まり、昭和23年(1948)に開通したトンネルで、全長2987メートル。国道として甦る日が楽しみだ。