東北奇譚巡り
鬼の棲むクニ 津軽 ②

マタギの里の鬼伝説
鬼沢から西へ向かうと、日本海に面した鰺ケ沢町に入る。町を流れる世界遺産の白神山地が源流の赤石川沿いにも鬼に纏わる伝説が残っている。
赤石川の上流にある一ツ森と天然(おおきね)の集落は、六百年の歴史を持つ赤石マタギの里だ。ここで津軽藩の御用マタギでもあった家系の二十一代目当主、吉川隆さんから吉川家に伝わる鬼の話を伺った。
「いづのころかわかんねえが、鬼と仲良くなった御先祖さんがいるんだ」マタギは猟がないときは、田畑を耕して生活していたのだが、この御先祖のマタギは田畑の仕事を好まなかった。ある日、ふとしたことから御先祖は青鬼と仲良くなり、一緒に酒を呑んでは遊んで過ごした。
そんなある日のこと、鬼が「オラが田んぼやってけるが」と言い、何日もかかる田んぼ作業を一晩でやってくれた。その田んぼは、今でも鬼がつくった田んぼとして残っており、地域の伝承にもなっている。
吉川さんは子供のころ、親から鬼が使ったという大きな鍬を見せてもらった。その大きさは普通の鍬の三倍はあり、鬼の剛力を感じたという。また、鬼は御先祖一家とも仲良くなり、よく山から自分の好物だというゼンマイを採ってきては振る舞っていた。
しかし、ある年の節分のこと。鬼と仲良くなっていた一家の子どもが、近所の子どもの豆まきを見て、家に戻り「鬼は外!」と豆まきをした。その様子を見た鬼は、泣きながら山へ戻っていった。以後その姿を見せることはなかったという。
それから吉川さんの家では、鬼を偲んで豆まきを禁じ、ゼンマイも採らないという決まり事ができた。

祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命・大山祇命。
鬼が嫌う菖蒲が地名の鬼沢菖蒲沢に建立されているのも興味深い。

鬼が使ったといわれる巨大な鉄製農具を模した
農具が奉納されている。

鬼は何者?
このように津軽では、鬼が人と交流し恩返しする話が伝えられてきた。では一体この善行を働く鬼は何者なのだろうか。
鬼沢については異国人説が強く言われている。岩木山周辺には、たたら製鉄遺跡が多く発掘され、鬼は製鉄技術を持った異国人ではないかというのだ。製鉄の火で赤くなった顔、作業で鍛えられた大きな体。その姿が鬼だというのも納得できる。
また変わった説としてキリシタン説がある。江戸初期、津軽には大阪、京都、薩摩のキリシタンが流刑されており、彼等が鬼沢に入ったというのだ。多くが知識階級のキリシタンだったそうで、その知識が田へ水を引くのに活かされたのではと考えられている。
一方、赤石マタギの許に現れた鬼は何者だろう。筆者の私は異国人でもなくキリシタンでもないと考えている。それは吉川さんが語ってくれた興味深い話にヒントがあった。
吉川さんが祖父から聞いた話として、明治のころ赤石川上流の山(現・白神山地の一部)に違う言葉を話す男女数名が住んでいたというのだ。彼等、山人は狩猟に長けており、時々山を下りてきては仕留めた鳥や獣を米や野菜と交換していた。しかし大正に入ると、ある日突然その姿を消してしまったという。
吉川さんは、この祖父から聞いた山人について、アイヌではないかと語る。確かに赤石マタギが用いる山詞(やまことば)にはアイヌ語があり、山人は白神の山に籠もったアイヌだとも考えられる。
だとすれば、吉川さんの御先祖が交流していた鬼も山から下りてきたアイヌの大男ではなかろうか——。心優しき善行の鬼の正体を突き止めるのは難しい。
様々な説を考察するのもロマンがある。しかし怪しきモノを好む怪談作家としては、鬼は何者でもなく鬼であってほしいと思う。

白神山地を源流とする清流。津軽藩始祖の大浦光信が赤石川沿いの種里に城を構えた際に村人を苦しめていた赤鬼達を退治した。その時に流れた鬼の血で川も石も真っ赤になったことから赤石川と呼ばれるようになる。上流には光信と鬼達が戦った雨血場がある。

光信の鬼退治で七匹の鬼を斬った家来に鬼の袋を褒美として与えたのが由来の地名。地名に鬼の字が入るのは鬼沢と鬼袋の二ヶ所。

文・鶴乃 大助(怪談作家)
青森県弘前市在住。怪談好きが高じて、イタコやカミサマといった地元のシャーマンと交流を持つ。津軽弁による怪談イベントなどを県内外で精力的に行う。共著に『青森怪談 弘前乃怪』『奥羽怪談シリーズ』『秋田怪談』など。最新刊に『青森の怖い話』(竹書房)がある。
