このレポートは、「日本の廃道」2012年8月号および2013年4月号ならびに5月号に掲載した「特濃!廃道あるき 駒止峠 明治車道」をリライトしたものです。
当記事は廃線探索をテーマにしており、不用意に真似をした場合、あなたの生命に危険が及ぶ可能性があります。当記事を参考にあなたが廃道へ赴き、いかなる損害を受けた場合も、作者(マイみちスト)およびみちこ編集室・道の駅連絡会は責を負いません。

所在地 福島県南会津町
探索日 平成21(2009)年6月26日

駒止峠の地理的条件

会津地方のおおよそ南半部、阿賀川より南側に広がる地域を、中世以来「南山」と総称する。西を越後山脈、南を帝釈山地、東を奥羽山脈に画された(これらは全て隣県との県境でもある)5000平方キロ内外の広大な地域だが、その名の通り大半部が山地である。

本稿は、根源的に交通不便を宿命づけられた山岳地帯である南山の人々が、代々どれほど熱心に駒止峠の改良と維持に当たってきたかという歴史を、まず述べる。だがそれを理解する前提として、駒止峠が南山交通史上、特に重視された地理的な必然性を知る必要があるだろう。

次の地図を見て頂きたい。

明治時代における南山の交通の幹線は、この図で青くハイライトした沼田街道会津街道という2本の道だった。前者は明治15年に三等県道、後者は明治17年に一等県道へ認定されており、これらは明治時代を通じ、南山でたった2本だけの貴重な県道だった。

この2本の幹線に共通する特徴は、経路が大きな川に沿っていて、最上流の県境部以外に大きな峠がないことである。沼田街道は只見川とその上流の伊南川に沿って檜枝岐へ至り、そこから尾瀬峠を越えて上州(群馬県)沼田へ通じていた。会津街道は、大川(阿賀川)に沿って田島へ至り、そこから山王峠を越えて野州(栃木県)今市へ通じていたのである。

このような立地条件を背景に、比較的勾配が緩やかだったこの2本の道は、車輌による交通が重視されるようになった明治以降、それぞれの前身である近世の沼田街道や下野街道と比較して、重要度をより高めた。

さて、ここで駒止峠の位置を見て頂こう。駒止峠は、沼田街道と会津街道を最短距離で連絡する位置にあった。しかも、南会津郡役所が置かれた南山最大の都会である田島を一端としている。南会津郡の郡域は大川と只見川両方の上流部に跨がっており、駒止峠は郡の東西を結ぶ、政治的にも重要な路線だった。

福島県重要文化財指定である旧南会津郡役所が田島にある。明治18年に竣工した擬洋風建築物だ。

平成18年、駒止峠の東西にあたる田島町と南郷村は、隣接する伊南村、舘岩村と1町3村の大合併をして新たに南会津町を発足させた。当時既に駒止峠はトンネルで結ばれていたとはいえ、標高1100mを越す高い山地を挟んでの合併で、その広袤は地図上でも目立っている。この出来事は、駒止峠の利便性が培った両流域の活発な交流なくしてはあり得ぬ出来事だったろう。

駒止峠によって田島と結ばれている伊南川上流地域の人口は、今も昔も多くはない。時代による変化はあるが、明治の資料で約3万人、最近は8000人弱(檜枝岐村、旧南郷村、旧伊南村、旧舘岩村の人口の合計)程度だ。したがって駒止峠の交通量にも自ら上限はあったはずだが、それでもこの地方の人々が、文字通り、総力を結集して駒止峠の改修を進めてきた歴史を、明治期に力点を置いて紹介したい。

駒止峠の歴史(1)
~近世以前~

駒止峠が通路としていつ頃成立したかは定かでない。しかし古い命名譚が伝わっている。平安時代末期、平家討伐のおりに東国へ落ち延びた高倉宮以仁王の一行が、信州より尾瀬を通って会津へ入り越後へ向かう途中、この峠を通った。だがあまりの道の険しさから、以仁王が乗っていた馬が歩みを止めた。そこから「駒止峠」という名前が生まれたという命名譚だ。さらに異説として、元は「大峠」と呼ばれていたものを、以仁王が「ありきたりな名である」として、新たに「箕ノ輪峠」と名づけたというものもある。

もっともこれらは伝説の範疇を出ない。明治以前の多くの記録は、「駒峠」という字をあてていて、実際の読みも今日まで「こまどめ」ではなく「こまど」であることから考えて、この峠名の本当の由来は、古い日本語である「マド」(峠や鞍部など山の隙間に空が見える場所を指す)に由来するのだと私は思う。そしてその事こそ、峠の古さの本当の証左かも知れない。

近世の南山は、度々幕府の直轄地となった。これを管轄する代官所は田島に置かれた。会津藩の若松城下から田島を通って江戸へ上り下野街道は、藩の最重要の公道(会津五街道のひとつ)として、沿道に宿場や一里塚の整備が行われた。そして江戸廻米をはじめとする大量の物資輸送に賑わった。

下野街道の賑わいとともに、この上郷(田島地方)と、伊南・伊北郷(伊南川流域と只見地方。これら上郷・伊南郷・伊北郷を合わせた地域が、後の南会津郡に相当する)を結ぶ位置にある駒止峠も重要度を増し、峠の田島側の上り口にあたる針生は宿場として発展した。そこから駒止峠の別名である針生街道という呼び名が生まれ、駒止峠を針生峠と呼ぶこともあった。針生街道は幕府が南山直轄領の視察のためにたびたび派遣した巡見使の通路となり、下野街道に準じる公道でもあった(ただし、巡見使は針生から駒止峠の南にある戸板峠を越えたとする説もある)。

19世紀の初頭に編まれた『新編会津風土記』には、「針生村」の項に次の記述がある。

○駒戸峠 村西二十八町にあり、古町組入小屋(※)に行く路なり、登ること十数町峯を界ふ

(※)現在の南会津町大字東のこと。昭和34年に大字入小屋から改名した。

この時代の針生街道駒止峠の整備状態は記録が少なくよく分からないが、山口宿(沼田街道と針生街道の分岐地点で現在の南会津町山口)にあった「江戸海道」と刻まれた立派な道標石は、この峠道の当時の繁栄を十二分に感じさせるものがある。

山口の針生街道道標石(現存の有無は未確認)。(『会津の峠 下巻』より転載)

駒止峠の歴史(2)
~新道建設への機運~

会津地方が激戦地となった戊辰戦争では、駒止峠にも戦火が交えられた。針生に陣取った会津軍と入小屋側の新政府軍との間で戦闘があったと伝わっている。

会津地方が大きな痛みをもって迎えた明治2年、全国の関所が一斉に廃止され、流通や旅行は自由となった。それまでの宿場は駅と名を変え、交通分野の一新が進められた。明治5年に新橋横浜間に鉄道が開通し、明治24年には日本鉄道線(東北本線)の上野青森間が全通し、東北地方も新たな時代を迎えた。しかし、山深い南山へ車両交通(鉄道ではなく、ささやかな荷車や人力車、せいぜい馬車のことである)がもたらされるハードルは、まさに会津の山々のように高かった。

明治9年1月、この年に合併し福島県の一部となる直前の若松県の県令・澤簡徳は、管内道路の修繕伺いを内務卿・大久保利通に宛てている。そこには、「管内各道之儀ハ戊辰之際一時著シク損壊シ、爾後年々多少修繕ハ加フルト雖モ(中略)戸数僅少殊ニ貧民多ノ土地ニシテ充分其力及バズ…」と、交通網の不備と、その原因が、切実に記されている。

明治10年8月に田島近隣の村々が連合し、周辺の多くの峠道の修繕を計画したという記録が残っている(『田島町史7』収録『峠道路修繕見込書』)。そこには、針生峠の名で、駒止峠が第一番に挙げられており、針生村(現在の南会津町針生)をはじめとする沿道4ヶ村が各戸1人(針生村は2人)の人夫を出して(合計270人)、峠の田島側を3240間(5.9km)修繕する計画であった。しかし実際に実行されたかは不明である。

次いで明治12年5月から翌月にかけて、今度は駒止峠の伊南側で改修が計画された記録がある。入小屋村戸長・馬場清一郎が記した『駒戸峠渡達』(『田島町史7』収録)によれば、「字戸板沢ヨリ古木地屋敷ヘノ新道開鑿里程十六丁拾五間(1.8km)」の内、岩場の切り開きに必要な火薬の工費30円を地元民に負担させようとしたが困難と察したので、この峠を通る諸荷物一駄に付き若干の口銭をとって収入としたい旨を、同じ伊南郷に属する古町村など4ヶ村の戸長と交渉したとある。今風に言えば有料道路の整備計画だが、これも結果は不明である。

さらに同じ年の6月には、田島側の金井沢村が関わった改修工事が実際に行われたらしく、同村の記録『駒戸嶺修繕録』(『田島町史7』収録)が残る。それによると、長さ42間(76m)と26間(47m)の2箇所の改修を、人夫144人で行い、それぞれ幅9尺(2.7m)の道(山側に側溝を設けた)が完成したという。この改修区間は短いが、既に側溝を有する車道らしい車道が指向されていたことが伺える。

『駒戸嶺修繕録』の表紙。(『田島町史3』より転載)

これら明治10年代の工事は、近世までの(おそらく馬が越せないような険しい)峠道を踏襲した部分的改修であったようだが、峠道を根本的に車道へ変える大規模な改修工事の機運は、明治15年から17年にかけての三島通庸県令時代に、著しく培われた。三島県令は、よく知られている通り、全会津の人民を強引に巻き込んで「会津三方道路」と呼ばれる東西南北の大幹線道路の開鑿を行った。その1本が会津街道であり、明治17年に馬車道として完成した。これに連絡する針生街道の車道化は、その4年後の明治21年に企画されたのである。

そしてこの時の新道こそが、地形図に並ぶ水準点の列という形で私に見出された駒止峠旧々道、「初代車道」の正体であった。

駒止峠の歴史解説編は、今回、次回、その次と3回分程度を予定しています。じっくりいこう。