このレポートは、「日本の廃道」2012年8月号および2013年4月号ならびに5月号に掲載した「特濃!廃道あるき 駒止峠 明治車道」をリライトしたものです。
当記事は廃線探索をテーマにしており、不用意に真似をした場合、あなたの生命に危険が及ぶ可能性があります。当記事を参考にあなたが廃道へ赴き、いかなる損害を受けた場合も、作者(マイみちスト)およびみちこ編集室・道の駅連絡会は責を負いません。

所在地 福島県南会津町
探索日 平成21(2009)年6月26日

駒止峠の歴史(3)
明治21年の新道工事

(『南郷村誌』より転載)

明治21年1月、駒止峠開削に関わる『新規道路工事之義二付上申』(『南郷村誌5』収録)という文書が、南会津郡長・真田庵の代理より、福島県知事・折田平内に提出されている。この中で駒止峠開削の理由を、南会津郡内東西の往来の利便向上はもちろんとして、「西部ヨリ京浜地方ヘ物産輸出上ニ最モ緊要ノ地位タリ」と謳っている。これは、先に開通した会津と関東地方を結ぶ会津三方道路の存在を念頭に、これと田島で接続する針生街道の開削によって、郡の西部にあたる伊南川流域をも関東地方に結びつけることを指向しているわけだ。

この表はこのときの工事の支出入金額の一覧で、壮大な工事の概要を知ることが出来る。まず支出の総額(=工事費)は1万4581円あまりで、この大部分は人夫の賃金にあてられた。1人1日20銭が支払われており(ちなみに三方道路工事では15銭)、全長1万3968間(25.4kmの工事に、延べ5万9426人が使役された。そして三方道路と同じように、これらの人夫は郡内の全村に出役を割り当てた(近隣の村が割り当ては重かった)。

一方の収入、すなわち工事費の調達先は、8割は関係する村々が支出する連合村費であるが(残り2割は郡費)、その実態は、南会津郡内全町村(田島町および98ヶ村)4431戸の各戸より2円63銭2厘を徴収するという実質的な税金。受益者の先行負担金に他ならなかった。ちなみにこの当時、小学校教諭の初任月給が8円程度である。南会津郡民の負担は、三方道路と同様に大きかった。しかも各村によって駒止峠との遠近があり、受益者としての利便性には大きな差があったが、徴収金は一律であったようだ。まさに有無を言わせぬ全郡挙一によって、道路工事に当たったといえる。どれほど駒止峠が重視されていたかが分かるというものだ。

この工事は、明治21年7月15日に針生で真田郡長が出席する起工式が執り行われた。実際の工事はやや遅れて8月25日から始まり、連日1000人を越える人夫が人海戦術的土木工事に従事した。その結果、同年秋、明治211015日に早くも竣工式が開催された。このときは折田知事も臨席したそうである。わずか52日間で、合計25kmの新道が改修・新設されたとは、三島通庸を彷彿とさせる電光石火の工事であった。

この工事の詳細は、同年7月に作成された『駒戸峠開鑿日誌』(『南郷村誌』収録)で知ることが出来る。各村に担当する丁場(工区)が割り当てられ、同時進行で一斉に作業が行われている(このことから、新道が従来の峠道からあまり離れていない所に作られた事が伺える)。また、道としての構造の規格は、概ね次の通りであった。

峠の道幅は2間(3.6m)とし、下水溝は敷幅1尺、深さ1尺5寸であった。低い所には盛土、高い所は掘り下げ、所によっては長さ5間幅2間の土橋を架すが、建材には末口5寸のものを使用した。また暗渠を設け、片勾配割円型に仕上げた。

これは当時の山間部における道路としては、かなり高規格な車道である。『南郷村誌』によれば、この開通によって、「荷車を中心とする車馬の通行が可能となり、南会津西部の産業発展に大きな力となっていった」と、その成果を謳っている。

これが今回探索しようとしている道だ。

明治28年3月、南会津郡長から福島県知事宛に、『南会津郡田島村ヨリ新潟ヘ通スル里道一等線路県道三等ニ編入ノ義ニ付上申』という文書が送られており、33年3月に再び南会津郡会議長から知事宛に、『県道編入ノ儀ニ付建議』が提出されている。これらは、新道開通後の針生街道が、里道一等という格付けにあって、これを県道三等へ格上げする運動が継続的に行われていた事を伝えている。

また、明治29年の資料には、同道を「里道一等線越後街道」と表現しているものがあり、これが近世からの伝統的な針生街道という通称に代わる、里道一等としての路線名であった。前出の33年の建議では、里道一等越後街道について、「新潟県三条ヨリ東京ニ達スル要路ニシテ、本郡ノ中央ヲ貫通シ、交通上頗(すこぶ)ル重大」と評価している。

里道一等越後街道の経路は概ね上図の通りであった。すなわち、新潟県三条から八十里越で郡内只見へ入り、山口を経て、駒止峠を越えて郡都田島に達するものであった。そしてこれは現代の国道289号の三条~田島間と同じ経路である。国道289号は昭和44年に指定されたが、その車道としての原点は、明治時代に認定された里道一等越後街道にあったといえる。(余談だが、八十里越の区間には未だ自動車が通れる道が開通していないが、工事が進められており、あと数年で開通する見込み)

このように全郡を挙げて建設された駒止峠の最初の車道は、格付けこそ里道であったが、早くも全国的な道路網の一部として評価されていたようで、正確な時期は不明ながら、沿線に水準点が設置された。

だが、その活躍の期間はあまり長く与えられなかった。その理由と顛末を次の章で紹介する。

駒止峠の歴史(4)
明治39年の新道工事

今日から見れば「旧々道」である、明治21年開通の初代車道の評価を、それがまだ「旧道」であった当時に編まれた『南会津郡案内誌』(昭和12年発行)から引用しよう(太字は著者注)。

針生街道は本郡東西部の咽喉部にして貨物の軍輸、旅客の交通頻繁を極むる要路なるも、往年改修前は幅狭く、傾斜急峻にして、屈曲迂回多く、交通上不便尠(すくな)からず、地方経済上の損失は勿論、人文の発達をも沮害(そがい)することあるを以て――

少々型どおりの表現ではあるが、道路に対する各種の不評(幅員狭小、勾配急峻、屈曲過大)を一斉に買っている。このような悪評を打開するために、明治時代のうちに、早くも2回目の新道工事が行われたのであった。そうして生まれたのが、現在の旧国道だ。

最初の車道の開通から17年目の明治38年1月、南会津郡全町村(1町17村)は、駒止峠を再び改築すべく、郡長・山内栄助を会長とする「駒止峠道路改修期成同盟会」を組織した。この設立においては山内郡長と県会議員・原田盛美が中心的人物となった。会則の第一条として、「本会ハ本郡東西部ノ交通ノ至便ヲ図リ、一ハ凶作救済ノタメ駒止峠道路ノ改修工事ヲ起スヲ以テ目的トス」を掲げ、凶作によって貧困を余儀なくされた農民の救済が、事業の大きな目的にあったことが分かる。

計画の総工費は、前回から倍加して2万6925円と見込まれた。このうち約4割の1万997円は県の補助金で、残りは郡費で賄うとした。そして再び郡内各村住民に出役が割り当てられた。実際の工事は明治39年10月に始まり、翌年明治40年10月に、全長7520間(13.6km)の新道が竣工した。

明治21年の初代車道(旧々道)、明治40年の2代目車道(旧道)、昭和57年開通の現国道。以上3世代の峠道を鳥瞰図上に示した。

初代と2代目の峠の高さは、それぞれ1135mと1150mで、ほぼ変らない。だが位置は直線距離で1.5kmほど離れていて、途中の経路も完全に別である。そのため開通当初は、従来の峠を上駒止、新道の峠を下駒止と呼び分けたというが(『会津の峠 下巻』)、やがて駒止峠は新道の峠名となり、旧道の峠は(地形図もそうであるように)忘れられ、名無しとなった。敢えて呼ぶなら、近世以前の旧名とされる「大峠」や、伝説的な命名譚がある「箕ノ輪峠」が候補となるが、本稿では分かりやすさを重視して単に「旧駒止峠」と呼びたい。

ところで、この2度目の新道がこれほど大胆にルートを変更した理由は、文献には出ておらず分からない。なにか旧駒止峠が改良に適さない根本的な問題を抱えていた事を想像させるが、現地踏査で何かが見えてくるだろうか。

次回も歴史解説の続きです。