1 あッ! あれはッ! イヌワシ!?

2020年2月、牡鹿半島の鮎川から雄勝半島、南三陸を経て陸前戸倉駅まで歩いた後、急速にコロナ感染が拡大した。その結果首都圏一帯に緊急事態宣言が発令され、その先の陸前戸倉から気仙沼まで北上する計画は実行できないままになっていたが、6月下旬になってやっと緊急事態宣言が解除されることになった。待ちに待った瞬間だ。

早速朝一番で新幹線に飛び乗り、仙台を経て石巻線・気仙沼線を乗り継ぎ、柳津(やないづ)駅からBRTに乗り換えてスタートの陸前戸倉(りくぜんとぐら)駅に降り立った。意欲満々でいざ出発だ。右手に美しい志津川湾越しに2月に雪の中を歩いてきた南三陸のエリアが見えている。既にかなり日差しは強くなっていたが、気分良く歩いていると何やらかなりの上空で悠然と舞う大きな鳥の姿が見えるではないか。トンビかとも思ったが、トンビの飛んでいるエリアよりかなり高いところを飛んでいるし悠然とした飛び方がトンビとはちょっと違っていてどうもイヌワシのように見える。両翼を広げると大きいものでは2メートルにもなる迫力だ。まさかこの目で実際に見られるとは。何ヶ月ぶりでやっとこの地を歩くことができたぼくを歓迎してくれているかのような姿に大興奮だった。

残念ながらこの日その飛び方からイヌワシだと思ったのはやはりトンビの間違いだったことが後日分かったが、いずれにしてもこの回のハイク初日にいい夢を見させてもらって一日気分よく歩けたことはラッキーなことだったと思う。

2 まずい!!!! 熊だ!!?

さて、志津川の水尻川河口付近から大雄寺を通りこの日のゴール入谷に向けて、左側が山右手が崖のいい感じの山道を登っていく途中、突然左手すぐ上でなにか大きな生き物が激しく動く音がした。もちろん熊鈴を鳴らしながら歩いていたのだが、距離にしてわずか5メートルくらいだ。見上げると黒っぽい大きな動物が激しく暴れている。とっさに「熊だ!!」と思った。
山を歩くときの鉄則は、絶対に出会い頭に熊に出くわしてはならないということだ。万が一遭遇してしまったときには、ある程度距離がある場合には静かに後ずさりしながら更に距離を取り、安全な距離まで離れたら下り方面に待避するのだが、このときはあまりの近さだし熊スプレーも持っていなかった。右側は崖だ。万事休す!!!!背筋が凍り付く思いで、最後の手段で熊の攻撃に備えた防御体制(うずくまって両腕で首周りを守り攻撃がやむまで耐える)に入ろうとしながら改めてよく見ると、なんとそれは大きなニホンカモシカだったのだ。

ニホンカモシカはいわゆるわれわれが鹿としてイメージしているシカ科のニホンジカとは異なり、ウシ科に属するずんぐりむっくりした大きな動物だ。あまりにも近くで突然暴れだしたのでとっさに熊だと思ったのだった。どうやらなにかに足を挟まれて身動きできなくなっていたのが、人間が近づいてくる気配に驚いて突然暴れたようだった。一度は腹をくくったものの、熊ではなかったことが分かっていのちが救われた思いで心からほっとしたのだが、よく見ると激しく暴れながらなんとか逃げようとするその様子が実にかわいそうだった。なんとか助けてあげたかったが大きな身体で暴れているのでとても危険で近づけず、心を残しながらその場から離れていったのだった。
今でもあのニホンカモシカがその後どうなったのか気になっている。

3 「ペンション ヴィラ・プチろく」の千葉しげ子さん

翌日はその日の宿だった「南三陸まなびの里いりやど」を早朝に出発して、神行堂山の裾野を抜けて田束山に登り、そこから本吉方面に向かっていく予定だった。田束山エリアではテント泊できるキャンプ場はない。20数キロ先の本吉まで歩いてもその状況は変わらない。結局出たとこ勝負でどこか宿を探すつもりで歩き出した。
途中、神行堂山の山懐にある石の平集落では自分たちの集落に「みちのく潮風トレイル」のルートが通ったことを喜び、そのことを記念して花壇を作ったことを記した手作りの看板があったりして大いに感激した。
田束山は、車でも直接上っていける山頂からは志津川、歌津の海が一望できる素晴しい山だった。

田束山頂から南三陸の海を臨む

さて、田束山山頂からの絶景を堪能した後本吉方面に向かって宿を探しながら下りだしたが、コロナ禍の中で断られるものも多くなかなか見つからない。そうこうしているうちに小泉大橋を渡りもう本吉の街もすぐそこだ。最終的に本吉の街を抜けて、結局出発してから30キロ近くのところにあるBRTの小金沢駅すぐそばの「ペンション ヴィラ・プチろく」というというところに泊まることになった。

千葉しげ子さん

夕方になって宿にようやくたどり着くと女将さんの千葉しげ子さんが優しく出迎えてくれた。どうやら女将さんの娘さんも一緒にペンションをやっているようだ。実に親切な宿で、お風呂に入っている間にかごに入れておけば洗濯までやってくれるというありがたさ。夕食も次から次へと豪華な海鮮が出てくる。
ぼくが埼玉から来たのだと言うと、女将さんが「埼玉っていうと与野高校という学校がありますよね」と言う。それを聞いてぼくはビックリ仰天した。実はぼくはリタイヤする前は埼玉の学校で高校の教員をやっていて、ぼくが住んでいるところは、現在は合併して「さいたま市」になっているがその前は「与野市」であり、しかもかつてそこにある「与野高校」に9年間も勤務していたことがあったからだ。はるか埼玉からやって来てテクテク30キロ近くも歩いて、もう少し手前で泊まりたかったのにうまくテントを張れる場所も宿も見つからずに、全くの偶然でかろうじて飛び込んだ宿の女将さんから「与野高校」という言葉が出たことに本当にびっくりした。実はということでぼくが与野高校にいたことを話すと女将さんもビックリして、前に宮城県でフェンシングのインターハイがあったときに与野高校が埼玉の代表で来てプチろくに泊まってくれて、それ以来毎年のように関係が続いているのだとのこと。確かにぼくのいた頃からフェンシング部は毎年インターハイに出るような強豪校だった。
更に、お孫さんが今埼玉の大学で教員を目指して学んでいるのだということを聞いてまた驚いた。ぼくは高校の校長時代に、毎年自分の学校の教員志望の若手職員に教員採用試験対策の指導をしていたのだが、そのことを話すと女将さんもまたびっくりして「神のお導きだ」と言わんばかりの勢いで喜んでくれて、その晩はプチろくのお二人と大いに話に花が咲いたのだった。
そのときに「みちのく潮風トレイル」のこともいろいろと話し、宿泊メニューの多様化や遊休敷地のテントサイト化等についてもご検討をお願いしたが、そのことにも強い関心を示していただいて、現在では「みちのく潮風トレイル」のハイカーへのサポートに実に意欲的に取り組んでいただいている。
ここでもまた、ロングトレイルのもたらしてくれる不思議なご縁でつながることができたのであった。

このときは、更に翌日から二日間かけて、大谷海岸、岩井崎、松岩漁港を経て気仙沼市内に入り、安波山に登ったあと気仙沼駅から帰途についたのだった。

近くにあった慰霊碑
大谷海岸手前の桜島神社
岩井崎から大島・龍舞崎を臨む
安波山から気仙沼市街を一望する