1 臥竜梅

トレイル最大の半島である重茂半島を歩いたのは、2021年4月、釜石をスタートして野田玉川を目指して北上する中でのことだった。前日に船越半島を一日で歩いた後だったので身体へのダメージがまだ残っており、この難関半島を攻略するにはやや不安を残しながら起点の山田町大沢地区をスタートした。
この大沢地区には、日本に10本しかないといわれる珍しい「臥竜梅」がある。しかもここの「臥竜梅」が北限の一本だという。4月中旬になろうとしている時期だったので残念ながら見られないだろうと予想していたが、なんと出発してすぐ前方に見事な晴天を背景に咲き誇る、見事な梅の姿が見える。天候不順のせいか、まだ見事な花を咲かせており、その日は魹ヶ崎までの20キロ強という行程だったので、しばし時間をとって、見事な臥竜梅をゆっくり見学することができた。

2 姉吉キャンプ場 えッ!?トイレ閉まってる、水も止められている!!!

トレイル最大の半島である重茂半島には当時デイキャンプ専用の姉吉キャンプ場(令和5年より宿泊可能となっている)以外に野営できるキャンプ場はなく、宿も音部地区にある民宿「おとべ荘」しかなかった。おまけに北上の後半にはだれもが口をそろえて言う月山前後の階段地獄がある。それまでかなりハードに歩いてきていたので、できればこの半島は2泊でゆっくりと歩きたかった。しかし残念ながらコロナのせいでおとべ荘には宿泊を断られてしまった。


やむなく山田町の大沢地区をスタートして、本州最東端で知られる魹ヶ崎(トドガサキ)にある灯台で一泊することとし、二日間で重茂半島を攻略することになった。魹ヶ崎の4キロ弱手前にある姉吉キャンプ場は震災後の整備も進んでおり、綺麗なトイレも水道もあるので当然条件がいいことは分かっていたが、半島を二日で攻略することを考えると少しでも足を伸ばしておきたくて魹ヶ崎に決めた。実は魹ヶ埼灯台にあるトイレは工事のため使用禁止になっているし、携帯の電波は届かないとの事前情報があり、手前の姉吉キャンプ場で水を補給していけばなんとかなると判断したのだが、これがいけなかった。

確かに姉吉キャンプ場はほぼ整備が終了していて素晴らしいキャンプ場に変身していた。施設もきれいだ。それまでにほとんど水が底をつきかけていて、ここでキャンプ用の水を補給するつもりで急いで来たので、早速水道の蛇口を回そうとしてびっくり。水が出ない!確かに日曜日だがキャンプ場はまだシーズン前でオープンしていないせいか。ちょっと焦ったが、「いやトイレがある。あそこは間違いなく水が出る」と思い直して行ってみたら、なんとトイレには鍵がかかっている。「おいおい、トイレくらい開けておかんかい」と思ったが後の祭り。さてどうしよう。水なしでは魹ヶ崎泊は不可能だし、ましてやその先の重茂漁港までの長いアップダウンをクリアすることも不可能。震災のときに40mを超す最大規模の津波被害を受けた千鶏地区まで引き返す余裕はない。しばし途方に暮れたが、ふとその先の小さな姉吉漁港方面を見ると、日曜で人影のなかった漁港の漁船を係留しているあたりに人の影らしきものが見える。よし行ってみよう。結果的にはこれがよかった。行ってみるとひとりの高齢の漁師の方がいる。事情を話してなんとか水の補給ができないか尋ねると、小さな漁船が並んでいる辺りを指さしてそこに水道があるので、最近工事の関係で出なかったんだけどひねってみろと言う。なんとか出てくれと祈るような気持ちで蛇口を回すと、なんと出た!よかった!その老漁師のおかげでその日の夜と翌日の行程を歩くための水を確保することができたのだった。
ちなみに水が確保できたことにほっとして急いで魹ヶ崎に向けて出発したので、その漁港での写真を撮り忘れたのがあとから悔やまれた。

3 え~~~ッ!!!! 岡野さん!!??

姉吉キャンプ場から魹ヶ崎に向かうルートは、最初はそれが本当にルートかどうかも分からないような急なガレ場で歩きにくい。そこを抜けるとすぐに歩きやすくなり、ゆっくり歩いても1時間ほどで魹ヶ崎の灯台が見えてくる。魹ヶ埼灯台は「最果ての灯台」として人気の明治35年(1902年)3月に建てられた本州最東端の灯台だ。現在の灯台は太平洋戦争の終戦間際に被災し、昭和25年(1950年)6月に復旧されたもので高さ33.72m。平成8年3月までは灯台守が常駐していたが、平成8年4月から無人となっている。人気の灯台で、姉吉キャンプ場に車を置くと気軽にハイキングを楽しめるので、途中デイハイクの何組かのグループに出会った。
そのなかで、あと200m位でもう灯台が見えてくるかという辺りで向こうから4人の男女のグループが歩いて来る。すれ違うときに何の気なしに挨拶をしてふと先頭の男性の顔を見てびっくり仰天。

先方も目を丸くして驚いている。なんとその男性はぼくの住んでいるさいたま市の小中学校時代の一級先輩の岡野さんだったのだ。『【第1回】ぼくの「みちのく潮風トレイル」ことはじめ』でも書いたとおり、岡野さんは兄則芳の小学校時代からの大親友で、中学校では則芳とともにぼくの部活動の先輩でもある。大学を出て岩手県庁の自然保護課に勤務するようになってからは盛岡在住で、盛岡に旅行したおりにはずいぶんお世話になったこともある。その岡野さんに、しかも同じ中学校の先輩である奥様や盛岡の友人の方々と一緒に、この本州最果ての魹ヶ崎の細い遊歩道の上で出会ったことに本当に驚いた。岡野さんも埼玉に住んでいるはずのぼくがなぜここにいるのかびっくりしている。前にも書いたとおり、岡野さんは則芳が山を歩き始めるきっかけになった大親友であり、この「みちのく潮風トレイル」(当時は「三陸トレイル」と言っていたが)を構想する上で大きな役割を果たしている方だ。
岡野さんが言うには、途中脇道にそれていたのでちょっと時間が違えばすれ違っていて会えていないはずだとのこと。この日この場所この時間にこんな形で出会うなんて、偶然にしてもあまりにもできすぎている。これは間違いなく則芳に導かれたに違いないということで双方納得して別れたのであった。
やっぱり「何も起こらないのがロングトレイル」って誰が言ったんだ?!(笑)

 魹ヶ埼灯台は周囲を高さ1メートルくらいの石の壁に囲まれていて芝も植えられている。灯台建物の横でのテント泊は風よけにもなって実に快適だった。おまけに翌朝午前5時前、雲一つない東の水平線から本州で最初に姿を現わした太陽が静かに昇っていく様を息をこらして見ることもできた。

ほかの場所でも何度も素晴らしい日の出をみてきたが、なんといっても本州最東端の日の出ということもあって、その幻想的な美しさは今でも脳裏に焼き付いている。こんな素晴らしい光景を独り占めして見ていていいのかという思いと、一点の曇りもない水平線からの日の出を見られた感動と入り混ざった不思議な感覚にとらわれた時間だった。

翌日はこの魹ヶ埼灯台から半島北側の根元にあたる津軽石までを一日で歩いたわけだが、あまり思い出したくないほどに(笑)ハードだった。

まず魹ヶ崎を抜けて重茂漁港までが3時間もかかった。さらに重茂漁港から階段地獄の月山登山口まで2時間はかかる。かなりの崖のアップダウンを繰り返し、階段をいくつも上って月山山頂に着いたのが昼頃。既にスタートしてから7時間近くかかっている。山頂からは遙か彼方に宮古の海と浄土ヶ浜が見える。

マップを見ると、あとは白浜漁港までの4キロほどの下り。その先は津軽石までほぼフラットの5キロ強だ。よし、「あとは登りもないし楽勝だ」と思ったのが大きな間違いだった。山頂から白浜漁港までの下りは、永久に終わらないかと思われるような急な階段がほぼまっすぐに続く、まさに「階段地獄」そのものだった。SAJ一級スキーヤーであるぼくは下りに強い(ハズ)。最初は軽快にウェーデルンさながらにリズムよく下って行ったが、既にそれまでに体力も足腰の筋肉もかなり消耗している。その上いつまでたっても階段が終わらない。おまけに階段上に松葉がうずたかく堆積していて滑りやすい。半分ほど下ったあたりで松葉に足を取られて滑って転倒し、片方のトレッキングポールを折ってしまった。幸いにもケガはなかったので、ガムテープで応急補修をしてなんとか白浜漁港にたどり着いたときには、筋肉がパンパンに張ってもう限界に近い。津軽石までの残り5キロほどのフラットコースがなんと辛かったことか。

恐るべし重茂半島。恐るべし階段地獄。

「次にこの半島を歩くときには二度と二日間なんかで歩くもんか!」と堅く心に決めてこの日を終えたのであった。