注目集める南部氏の城

 

 いま、南部氏の「城づくり」が注目されている。

 青森県南部町の聖寿寺館址(国指定史跡)発掘調査では「東北最古」「東北最大」とみられる成果が相次ぎ、国指定史跡を目指す同県三戸町の三戸城址発掘調査でも、本丸域で大規模な野面積石垣の一部を検出した。

 聖寿寺館主郭の発掘調査では喰違虎口状の通路遺構を検出、屈折部分は約2メートル四方あり南部町教育委員会は「枡形虎口」と発表している。

 現場を訪れた城郭考古学者の千田嘉博氏(奈良大学教授)は「国内でも古い段階に位置づけられる枡形である」と語った(『広報なんぶちょう』2019年12月号)。同時に発見された空堀と大規模土橋は東北地方最大級(長さ9.5m以上、通路幅3.1m以上、基底部幅5.6m以上、高さ3.6m、版築工法)、枡形虎口は東北地方最古級(15世紀後半~16世紀初頭)とされている。

 一方、三戸町教育委員会による三戸城址本丸跡の発掘調査でみつかった野面乱積石垣を見ると、裏込めの分厚い栗石がよく残り、南部氏による大規模城普請の実態が見えてきた。三戸城址には大手口、搦手口にも、それぞれ年代観の異なる石垣遺構が残されていて、石垣を残す他の南部氏関連城館との関係に注目が集まっている。

三戸城址発掘調査現地説明会で公開された石垣遺構
南部氏の本丸居館に相当する建物が置かれていた曲輪から出土

 戦国時代に築かれた南部氏関連の城館(八戸根城・九戸城)と盛岡城の間には、縄張構成上の連続性が認められず、むしろ断絶感のほうが強い。なぜなのだろう。

 筆者はこれまで、この「謎」を解くキーワードとして「浅野長政」の名を挙げてきた。秀吉没後、豊臣公儀における五奉行の一人となる武将だが、ここでは南部信直と長政の行動に注目しながら、「壺」にはまることを探っていこう。

 今回は盛岡城築城の歴史を「私見」に基づいて「深読み」する。それはまだ「仮説」を述べる前段の「妄想」に過ぎない。今後、織豊系城郭・近世城郭築城に関する先学の研究に学びながら、なんとか仮説提示に漕ぎつけたい。

 このあとの話が長くなるが、話題に関係する各地の城郭画像も掲載するので、読者のみなさまには、ぜひ、最後までお付き合い願いたい。

 

秀吉の「相婿」

 

 浅野長政は天文16(1547)年、尾張国の国衆・安井重継の長子として生まれた。しかし家督を蜂須賀小六(重継の甥)が継いだことから、長政は織田信長の家臣である叔父・浅野長勝の養女「やや」(彌々)の婿養子となり、浅野弥兵衛尉長吉と名乗ることになる。長政はその人生のほとんどをこの「長吉」の諱でおくっており、「長政」と改名するのは慶長3(1598)年のことである。

 長勝の養女には「ねね」(寧々)もおり、木下藤吉郎秀吉の妻となったことで、婿同士の長政と秀吉は親戚関係(相婿)になった。年齢は秀吉のほうが10歳年長だ。

 そして歳月は流れ、長政は豊臣秀吉の重臣となっていた。天正18(1590)年以降、長政は秀吉による「奥羽仕置」を遂行するため二本松城に拠点を置いた。

二本松城本丸東面の野面乱積石垣
街道筋からよく見える。浅野長政による示威的石垣普請の遺構か

 そのため前田利家からは、自分のことを秀吉との取次役と頼む南部信直について「京と南部は遠く離れているので『信直のことをよしなに頼む』」と、めんどうをみてやるよう申し入れられていた。利家は信直より7歳年長、逆に長政と信直は1歳違い、信直のほうがひとつ年上だ。

 

岩手山も威信装置

 

 天正19(1591)年9月、「九戸合戦」を終結させた浅野長政は、大坂帰還の途次、岩手・紫波郡境目の城、不来方[こずかた]城を訪れた。9月10日のことである。信直も長政を領境まで見送るため同道、この城にまる1日滞在した。

 不来方城がある場所(現・盛岡市内丸)は、日本海・秋田方面へ通じる道の分岐点であるばかりか、北上川を利用する水運の根拠地「川湊」を設けることも可能なところで、その流域には、穀倉地帯となり得る沃野が広がっている。

 また北上高地からは中津川が流入、二つの川は城のすぐそばで合流していたので、要害堅固なところでもあった(「令和」の現況はだいぶ変化している)。

 そして城の西を望むと、雄大な独立峰・岩手山(標高2,038m)が聳えている。山容は富士山のような成層火山である。こういう要害・景勝兼備の地、美しい景色は、どこにでもある、というものではない。

 長政が「富士を望む駿府のようだ」と思ったかどうか、それは筆者の妄想に過ぎないが、南部家に伝わる古記録には「新たな居城を築くにふさわしい場所である」と、ここに三戸城に代わる居城を築くよう信直に奨めたという。

盛岡城址二ノ丸から望む岩手山
都市景観規定によりビルの高さ制限で眺望を確保

<深読み!>

 最初の深読みだが、信直の威信が高まれば北奥羽の豊臣支配は安定する。会津の蒲生氏郷とうまく連携できれば伊達政宗の「活躍」をけん制することも可能だろう。
 富士山を背景とする駿府城のように、この景勝地に岩手山を背景とする「豊臣の城」を築くことができれば、新居城は南部氏の「後ろ盾」である豊臣政権の威信装置となり、新しい政治秩序をこの地方の武士・領民に浸透させることができるはずだ。
 しかし信直の考えは、長政の深慮遠謀とは違っていた。

 

北奥羽「盟主」の座

 

 このとき信直は、秀吉から「南部の国」のうち日本海側の津軽三郡を南部右京亮為信(後の津軽為信)に割譲することを命じられていた。しかしその代わり、北上高地に広がる閉伊[へい]郡を所領とすること、紫波郡の更に南に開ける北上川中流域(稗貫郡・和賀郡)も新たな所領として与えられるという、見込みが立っていた。

 <深読み!>

 そこで信直は、室町幕府足利将軍家の系譜に連なり、奥州探題と幕府を結ぶ権威の象徴であった斯波[しば]氏の旧居城、高水寺城(紫波郡紫波町)を改修して居城にすることこそ「効果的」と考えていた。

 信直の高水寺城攻略は天正16(1588)年夏のことである。いわゆる「惣無事令」違犯行為だが、会津を攻略した伊達政宗のように咎めを受けることはなかった。

 信直は前年、前田利家を取次として秀吉への服属を誓っていたので、豊臣政権と話し合いのうえで、北奥羽室町幕府体制の象徴、斯波氏を打倒する行動に打って出た可能性がある。したがって豊臣政権が旧体制の継承を認めるはずがない。

 長政の築城「勧奨」は親切心の発露ではない。新たな封建都市の象徴、城をここに築くべしという、至上命令であったのだ。

南部家第3の居城 高水寺城址遠望
寛永3(1626)年、南部利直が幕府の許可を得て仮の居城に

 

城を築き、城下を開く

 

 この時代、全国各地で、豊臣政権から本領安堵を受けた大名たちの城普請が行われていた。彼らは本領安堵に対する「御恩」を果たすため、経済基盤を確立し「奉公」に励まなければならない。

 こうした体制は、徳川家康・秀忠に支配される時代になると更に顕在になる。大名に服属する家来たちも、近世武家社会の一員として「御恩」と「奉公」に励み、更なる富を求めて、新田開発が盛んに行われた。

 そこで城と城下町を取り巻く都市の経済性が重視された。近郷に水稲生産地が広がり、水利に恵まれ、都市としての発展性をそなえた土地への築城が目立つのはそのためだ。信直の新たな居城の築城も、このような時代背景のもとにプランニングされることになる。

 

「築城名人」とは

 

 世には「築城名人」「縄張名人」と称される戦国武将がいる。加藤清正、藤堂高虎、黒田孝高(如水・官兵衛)が特に名高い。

 しかし城づくりを一人称で語ることは、とうてい困難である。

 大名がイニシアティブをとることは当然だが、その大名を支え、フォローする築城ブレーンや職人衆(諸職)が存在しなければ「築城名人」は城を築けない。

 そこで筆者は、築城に秀でた大名家を「築城名家」と呼びたい。「三大築城名家」加藤家・藤堂家・黒田家、いかがなものだろうか。

 長政の浅野家もそうした築城名家の一つである。長政やその嫡子幸長、浅野氏一族が築城・修築に関与した居城・居所は坂本城、大津城、若狭後瀬山城、二本松城、肥前名護屋城、甲府城、和歌山城、新宮城、常陸真壁城、広島城、三原城、笠間城、赤穂城など数多く、御三家と比べても遜色ないではないか。

甲府城址天守台石垣の野面乱積
浅野長政による甲府築城は慶長5年頃の完成か

 

秀吉の大坂城に似る

 

 盛岡城は南部氏が築いた城の最高傑作であるが、南部家の歴史を叙述した古記録の中には「縄張は浅野長政」と述べるものがある。それまでの三戸城や九戸城、八戸根城の縄張とは異なり、織豊系城郭の縄張構成であるだけにその信憑性は低くない。

 長年、史跡盛岡城跡の発掘調査に取り組んでいる盛岡市教育委員会の室野秀文氏は盛岡城の縄張構成について「豊臣方の有力な築城技術者の関与が推定される」と指摘。豊臣期大坂城との共通点を論文にまとめた(室野秀文「盛岡城の構造と特質―内曲輪の縄張りをめぐって―」『岩手考古学』第4号 1992年3月 岩手考古学会)。

 <深読み!>
 もちろん浅野長政自身が縄張図を引いたとは考えにくい。しかし長政が大坂に引き上げたあとも、特命を受けた内山助右衛門という武士が南部領に残り、領内の諸城破却(破城・城わり)をおこなっている。この内山のように「特命」を帯びた家臣がほかにもいて、おそらくは「縄張巧者」とでもいうべき家臣が、盛岡城の縄張図(原図)を引いた可能性はじゅうぶんに考えられるだろう。
 

「謎」を解くカギ

 

 盛岡城の歴史には「謎」の部分がとても多い。築城にいたる経緯についても、直接的な一次史料を欠く。これは寛永13(1636)年9月29日の盛岡城本丸火災が原因だと言われている。古文書や記録、普請・作事図面が灰になったもようだ。

 最近、城の縄張をみて、城主がどのような考えに基づいて城を築き、城下町を開いたか。その結果、どのような「国」づくりが行われ、いかにその遺産が今日に継承されているか、学者・識者がテレビ番組などで語るようになった。

 今年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公、明智光秀の城づくり、まちづくり、国づくり、本能寺の変に至る経緯なども、そうした視点で議論されている。

 盛岡城の「謎解き」についても、そういう見方が許されるのならば、室野氏による「豊臣方の有力な築城技術者の関与が推定される」という指摘は非常に重要だ。

 室野氏は近著のなかで「織豊系の洗練された縄張」と評価している(室野秀文「盛岡城」『織豊系城郭とは何か その成果と課題』P278~279 城郭談話会編 2017年)。

 
本丸周辺、階郭式の曲輪配置。平山城ならではの「一二三段」を形成

 

地形普請始まる

 

 南部信直の新居城はどのようにして築かれたのだろうか。天正19年9月10日、不来方城を訪れた浅野長政は、信直とその家来衆に向かい「ふたつの丘のうち、南側の丘のいちばん高いところに本丸を置き、以下二ノ丸・三ノ丸と段下がりに地面を削り、独立した丘の形を造り出せばよい。狭いところは腰曲輪のように築き出せばいいだろう。ほぼ同じ高さがある北側の丘は切り崩すべきだ」と、だいたいこのような手ほどきを行ったようだ。

 新居城(盛岡城)の築城は文禄元(1592)年から翌年にかけて基礎工事、すなわち整地主体の「地形普請」が行なわれたもようだ。信直は秀吉の命による「唐入り」のため肥前名護屋城へ出陣中で、長政の指導にもとづく削平、築き出しなど、一連の地形普請は嫡子、南部利直が指揮を執った。

 この地形普請では奉行衆を旗色別の5組に分け、軍役や郷役により動員された約2,000人の作業員を割り振った。当時、北上高地では盛んに鉄山開発が行われていたから、この地方にも大規模な土普請(土木工事)を行うだけの経験者、測量技術者、土工技術者など、普請に携わるマンパワーはじゅうぶんにあったとみて間違いないだろう。

不来方城地形普請の際の警衛拠点、花垣館址
旧不来方城の佇まいをほうふつさせる館址(盛岡天満宮境内)

 不来方城という名は、城名をプラス志向に改める文禄年間の流行に乗り、一時「森岡」に。しかし盛り上がり栄える岡という願いから「盛岡城」に統一された。

 

「石」を石垣に生かす

 

 盛岡城が築かれた場所は、地形的には北上川東岸に広がる洪積台地で、丘陵全体にわたり固い花崗岩が地中に分布する。地盤の強固さは申し分ない。不来方城の時代から地表には花崗岩の転石が露頭していたと思われ、地形普請の過程で地面を切り下げるほどに大きな岩のかたまりが姿を現したようだ。

地形普請のときに姿を現した「烏帽子岩」(左)
三ノ丸明神曲輪は築城当時の雰囲気を今もとどめる

 それは整地作業の妨げになったが、岩は石切職人の手によって切り出され修羅[しゅら]で集石場へと運ばれた。言うまでもない、石垣に用いるためだ。

盛岡城は苗木城(岐阜県)のように岩盤の上に築かれた城
中津川は城の要害であるとともに採石場
岩盤は築石に、川原石は石垣の裏込石として重宝された

自然地形を生かした要害「朝日谷」「毘沙門渕」の現況
城内でいちばん険阻なところ。中津川に接し奇岩怪石が磊々と折り重なる

 

石垣普請の起工式

 

 しかし信直・利直が本格的な石垣普請に着手できるまで5年のブランクが生じた。多くの石垣師、職人たちが「唐入り」のために海を渡り、倭城の石垣普請に従事していたためであろうか。

 古記録の多くに「慶長二 丁酉 年三月六日 盛岡御城鍬始」という記述が見える。「鍬始」とは、石垣普請に先立つ起工式の神事であるが、「鋤始」という言葉を用いる古記録もあり、平成9(1997)年に盛岡城が「築城四百年」を迎えたとき、どちらが正しいか、地方史研究者のあいだで議論になった。

 ところがその翌年、金沢城二ノ丸の発掘調査で大発見がありニュースになった。

 「平成10(1998)年、二ノ丸五十間長屋台石垣の解体修理工事に伴う発掘調査で『宝暦十三年六月二十五日』の紀年銘のある『鍬始石』が発見された。鍬始とは、石垣修築工事の開始に伴う儀式で、工事の安全と地鎮を祈念した。『鍬始石』は二つあり『鍬始』『鋤始』の文字が刻まれていた(以下略)」(石川県教育委員会『四五〇年の歴史を歩む よみがえる金沢城1』94ページ 2006年 北國新聞社)

 

 <深読み!>
 読者にはもうお分かりのことだろう。「鍬始」「鋤始」は一対のもので、同時におこなわれる儀式だったのだ。金沢城主前田家に仕える「穴太」の子孫、後藤家には「鍬始儀式の図」も伝わっており、前田家では古式ゆかしい伝統儀式を江戸時代中期まで継承していたのである。前田家の居城で見つかったこの知見。盛岡城の石垣普請に前田家の協力があった可能性が、まだおぼろげながら現実味を帯びてきた。

 

内堀四郎兵衛とは

 

 ある南部家関係の古記録には、肥前名護屋城にいた信直が利直に書状を送り「城取縄張ノ儀ハ第一内堀伊豆ニ能々相談イタシ…」と指示があったことを伝えている。残念ながらその古文書は残っていない。

 別の古記録には「一 古例城取縄張之法 浅野弾正少弼長政(中略)一 縄張下司地割奉行 内堀伊豆 四戸上総(以下略)」と書かれている。

この内堀伊豆、もとの通称は四郎兵衛、諱は頼式という。通称を「伊豆」と名乗るのは晩年であろうか。近江国(滋賀県)内堀村の出身といわれ、小谷城主・浅井長政に仕えていたが、主家が滅んだあとは前田利家の家来となり、利家の使者としてなんども信直のもとを訪ねている。その力量が高く買われ、天正17(1589)年に500石で南部家の家来となり、やがて城普請に関わる功績が賞され元和6(1620)年には1000石の大身となった。この内堀四郎兵衛は「穴太」の石垣職人たちと面識、人脈があったと語られることがある。だが真偽のほどは詳らかでない。

 

石垣を築いたのは誰か

 

 既に述べたように、南部信直・利直父子による盛岡城築城には前田利家、浅野長政という豊臣政権の中枢を担う武将たちが関わっている。

 前田利家は豊臣秀吉への臣従を望む信直の願いをかなえ、秀吉に取り次いだ重要人物だ。金沢城の石垣普請では石垣職人集団「穴太衆」が活躍している。穴太源介という棟梁の名が知られる。その弟に奥泉という名の石垣職人がいて、蒲生氏郷の要請に応え、会津若松城(黒川城)天守台の石垣普請に加勢したという。

 
会津若松城天守台石垣
「古式穴太積」技法の野面乱積。穴太の石垣師、奥泉の手によるものか

 その蒲生氏郷は天正18(1590)年、秀吉から42万石(後に92万石)を宛行われ会津の領主となった。伊達政宗・最上義光の動静に睨みをきかせ、江戸に移された徳川家康を北からけん制した。そのため信直との連携・協力は必須で「九戸合戦」終結後、短期間で九戸城本丸を総石垣に改造、信直の居城とすべく南部家に引き渡した。

 これは氏郷の威信にかかわる普請であり、その遺構を見ても蒲生家が総力を上げて築いた石垣であることがうかがえる。

 氏郷に九戸城石垣普請を命じた人物が浅野長政である。長政は伯父・杉原家次が天正12(1584)年に没すると、その配下にあった穴太衆を引き継ぎ、大坂城の石垣普請に取り組んだ実績があるという。文禄2(1593)年に甲斐国24万石を宛行われると、嫡子幸長とともに甲府城を石垣造りの城郭として完成させた。その後も和歌山城、広島城においてみごとな石垣を築いている。

九戸城(岩手県二戸市)本丸野面乱積石垣(左)と空堀を隔てた二ノ丸側石垣

 

長年かけて築いた石垣

 

 盛岡城築城が始まり、城普請が終わるまでの工期はとても長い。その間の説明を始めれば、更に話が長くなるので、概略を年表形式にまとめてみた。

第4期工事で築かれたとみられる粗割石乱積石垣(三ノ丸南面)

地形普請 整地、起工 文禄 元(1592)年春(3月?)第1期工事……約1年間

石垣普請 鍬始・鋤始 慶長 2(1597)年3月6日   第2期工事……5年経過

石垣普請 城普請再開 慶長 8(1603)年       第3期工事……11年経過

     城下町整備 慶長14(1609)年10月 中津川上之橋架橋……17年経過

     武家地丁割 慶長20(1615)年6月 外曲輪・惣構整備……23年経過

石垣普請 修復・拡張 元和 3(1617)年 春(3月?)第4期工事……25年経過

居城移転       元和 5(1619)年 三戸城から居城移転か………27年経過

居城移転 修復・整備 寛永 3(1626)年 郡山城へ居城移転か…………34年経過

居城確定       寛永10(1633)年 南部重直盛岡城入部………41年経過 

 

 「まちづくり」も同時に進められた。商人町が整い城下町経済が動き始める。その証となるものが中津川に架けられた「上之橋」擬宝珠銘で慶長14(1609)年10月吉日と年月が刻されている。それは城下の南と北が一つに繋がった紀年銘である。

中津川「上ノ橋」欄干の擬宝珠銘文は城下町整備の歴史を物語る

<深読み!>

 残念な話ではあるが、城普請という事業に限ってみれば、結局、南部氏は豊臣政権の期待に応えることはできなかった。

 遅くとも慶長4(1599)年までに新居城が完成していれば、慶長5年の中央政局に大きく関わる「北の関ケ原」に、南部氏の動向がなんらかの影響を与えた可能性も考えられた。つまり徳川家康の「会津攻め」、上杉景勝・直江兼続主従と最上義光の戦い「長谷堂合戦」に、伊達政宗の版図拡大の思惑がからんだあの局面で、南部利直の拠点城郭が太平洋側の福岡城(旧九戸城)や三戸城ではあまりにも遠すぎた。

 

「もしも」盛岡城が…

 

 更に深読みを続けよう。盛岡城が関ケ原合戦の前に完成し、南部信直・利直の威令が和賀郡や稗貫郡に浸透していたとするならば、伊達政宗が和賀忠親を扇動して南部領を侵犯させた「花巻城合戦」(慶長5年)と、伊達・南部の正規軍が唯一矛を交えた「岩崎城合戦」(慶長5~6年)は起こらなかったかもしれない。

 もしもそうであったならば、徳川家康は伊達政宗に与えていた「百万石のお墨付け」を反故にする理由をみつけることができず、実際に「伊達百万石」の版図が完成していたかもしれない。東北地方の歴史は大きくかわっていた可能性がある。

織豊系城郭の特徴を備える盛岡城の縄張
しかし石垣の多くは江戸時代に入ってからのもの(本丸西北側の石垣)

 南部利直はじっくり構えて、ときが訪れるのを待ち、そして友好関係がある前田家、浅野家、夫人の実家・蒲生家の協力を得ながらこの石垣を築いたといえよう。

 その間にも徳川家康・秀忠の命による公儀普請において助役を務め、江戸城の石垣普請、土普請に携わっていた。そこで得た石垣普請の技術、人脈、それも盛岡城の石垣普請に役立つことになる。

 

古相の石垣を探る

 

 盛岡城の石垣遺構を見ると、角石・築石の加工法、石配りの方法、石積技法の変遷など、織豊系城郭が近世城郭へと変わっていく過渡期、発達期における城石垣の様相を知ることができる。

 平石垣部分の築石から、慶長年間初期の普請(第2期工事)とみられる本丸東北面の野面乱積石垣の場合、隅角部算木積や平石垣の上部は元和年間(第4期後半か)に部分的に修補されたもようであるが、盛岡城最古級の石垣という評価は揺るがない。

 その石垣とほぼ同時期のものとみられる石垣遺構が本丸西南隅櫓台の地中から出てきた。角石は粗割石をわずかに加工して積むなど東北隅の算木積に似ている。

本丸西南隅の算木積 慶長年間初期(第2期工事か 現在埋戻し)
発掘調査で検出された石垣(盛岡市教育委員会設置解説板)
本丸東北隅の算木積
慶長年間初期(第2期工事 オリジナル 苔が付着したところが最古級石垣)
本丸東北隅から続く野面乱積石垣
慶長年間初期(第2期工事 オリジナル)
長大な二ノ丸東側の石垣(第3期工事か、後補:寛文年間、寛延元年)
正保城絵図にはその規模「南北三十八間 高さ二間五尺」と記載
二ノ丸東北隅の算木積
慶長年間中期(第3期工事か、後補:寛文年間)
ニノ丸東北隅から北へ続く野面・粗割石乱積石垣
慶長年間中期(第3期工事か オリジナル)
ニノ丸東南隅から続く野面・粗割石乱積石垣(後方の本石垣)
慶長年間中期(第3期工事か オリジナル)
二ノ丸東北隅から南側の野面・粗割石布積様石垣
楕円形築石による「笑い積み」(中央下部)が見える
慶長年間中期(第3期工事か、後補:寛文年間)
本丸下段腰曲輪東南隅の算木積(昭和の修理)
元和・寛永年間(第4期工事後半)築石は、ほぼオリジナル
本丸下段腰曲輪東南隅算木積と南面平石垣(昭和・平成の修理)
元和・寛永年間(第4期工事後半)粗割石による打込はぎ乱積石垣

 二ノ丸東側の長大な石垣は、本丸東北隅の石垣と同じく、古相な野面乱積石垣で慶長年間中期(第3期工事か)の普請と考えられる。東南隅の角石は改変を受けたものの築石は「はばき石垣」工法が採られたことからオリジナル石垣を残す。東北隅は角石・築石ともに寛文年間に修補を受け、粗割石を加工した打込はぎ布積様石垣となる。おもしろいことにオリジナルの野面石、粗割石の接合面をていねいに加工して目地の空きも少なく抑え布積みのように築石を積み上げる。ここの石垣には複数の「笑い積み」がみられことも特徴的である。南部家の「家老席日記 雑書」に残る記事から江戸の石垣師・仁兵衛の手によるものか、と考えられる。

 本丸腰曲輪下段を半輪郭式に巡る高石垣は元和・寛永年間(第4期工事前半~後半)の石垣。同時期の石垣ながら東北隅と東南隅では算木積の発達度に顕著な違いがあるし、隅角部の算木積は所々で異なる様相を見せる。それが時代的な差異か、職人技による違いなのか、現時点では結論を容易に導き出すことはできない。

 

失われた土居、堀

 

 盛岡城の中心部(「御城内」「内曲輪」)を取り囲む各蔵屋敷曲輪、さらに侍屋敷が置かれた外郭(「内丸」「外曲輪」)、侍屋敷・商家・町家が混在する城下惣構(「惣がわ」「盛岡輪之内」「遠曲輪」)の周囲は土居・土塁、内堀・外堀・惣堀で囲まれていたが、その遺構はほとんど消滅していて、整然と残された石垣遺構とは対照的だ。

 堀端の土塁は切岸であったと思われるが現状から確認することは難しい。周囲の土居はわずかに大手門虎口(綱御門跡)付近に残存するが、上部はかなり削平され低くなったように見える。

外堀・惣構の堀は明治初年に埋め戻され完全に消滅。ただ惣構堀のうち、城下町北西部の四ツ家・谷小路付近に堀端の土塁が一部残存し、堀跡の痕跡が通路状に続いている箇所がある。

大手門虎口へ折り回る内堀と堀端の土塁。土居はほぼ消滅
外郭から三ノ丸に通じる内堀端の土居・土塁遺構は鐘楼付近にのみ残存

 

盛岡城は「未完」の城郭か

 

 城郭が完成した寛永年間(1624~1644)の「盛岡城絵図」や「正保城絵図」(「奥州之内南部領盛岡平城絵図」)をみると、二ノ丸西側の高石垣はまだ築かれておらず、北上川本流がその直下を流れていた。前項で「盛岡城の縄張は浅野家の縄張巧者の手によるもの」と推断した。その「原図」は現存しないが、当初から、二ノ丸西側には石垣を築く構想になっていたのではないだろうか。

 次に、本丸と三ノ丸の間に挟まれた広い空間、のちに「下台所」と呼ばれる曲輪のことだが、この存在はどうにも締まりがわるく完成度が感じられない。

本丸下段腰曲輪と三ノ丸の間に広がる「下台所」曲輪

 「もしも」の話になるのだが、その完成形(理想)としては、金沢城三ノ丸のようなかたちの曲輪に仕上げるが望ましいのではなかろうか。

 この「下台所」曲輪は、今日、多目的広場と呼ばれていて、岩手公園になくてはならない場所である。盛んに城普請がおこなわれていた頃はバックヤードとして使われ、石垣石材や建築用材の置場、鍛冶、製材現場ではなかっただろうか。

「下台所」曲輪は岩手公園多目的広場となり
多くの市民の「思い出づくり」の場。今日は近くの中学の写生会

 

<深読み!>なおも続いた盟友関係

 冒頭で述べたように、戦国時代以来の南部氏関連の城館と盛岡城の間に縄張構成上の連続性が認められない理由を考えてみた。それまでの城館との間に「断絶感」がなければ、南部氏は新しい時代に対応した居城づくりを成し遂げることができなかったのだ。

 そこで南部信直に手を差し伸べてくれた人物が浅野長政であった。

彼もまた築城技術に秀でたブレーンを率いる「築城名家」の主であり、自分の「与力大名」の一人となった信直のために「寄親」として、また秀吉への「取次」役として心をくだいていたのである。さらに歴史的用語を使うなら、長政が信直に対しておこなった協力は、豊臣政権による大名への「指南」という行為といえよう。

 信直が長政の与力大名に組み込まれたのは文禄2(1593)年。同時に伊達政宗、佐竹義宣ら奥羽・関東の大名衆も与力となったが、政変の影響でこの枠組みは長続きせず、寄親・与力・取次の関係は解消された。

 しかし長政と信直の盟友的関係はそのまま幸長・利直へと受け継がれたし、実質的な「天下」の舵取りが豊臣政権から江戸幕府に移行したあとも、両家の友好的関係は江戸時代を通して続いている。同様に前田家との好誼も永続する。長政に代わって南部家の取次に復した利家・信直の信頼関係は、利長・利直へと受け継がれていく。

 南部家と前田家・浅野家友好の結晶、そして蒲生家との結びつき。その所産こそが盛岡城石垣なのである。

さて、今日のお話はみなさんの「壺」にはまっただろうか。

 

 

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