1 樫内で出会った女性

このエリアを歩いたのは2019年6月のことだった。浄土ヶ浜を起点に岩泉小本(いわいずみおもと)まで北上の予定だったので、まず浄土ヶ浜の保護官事務所とビジターセンターにご挨拶をした後出発した。

目の前の崖を越えた先に樫内浜がある

北上二日目、前夜の激しい雨と荒れた波の音で寝られず、翌朝も雨のなか早々にびしょ濡れの重い荷物を撤収して樫内浜(かしないはま)を目指して崖を下って行った。かなり海が荒れていたので予想していたものの、案の定波が激しく打ち付けていて崖のすぐ向こう側の浜に出ることができない。やむなく元のルートを戻り、迂回路を通って浜に出た。浜から北側のかなり急な崖を登って樫内(かしない)の集落に出たところで、まだ早朝だったが一人の年輩の女性が歩いてきたので念のために道を尋ねた。
しばらく言葉を交わして驚いた。なんと、その女性は中学を出てすぐに集団就職で東京に出て40年間働いたあと退職し、最近故郷に戻ってきたばかりだという。しかもその40年間住んでいた場所がさいたま市のぼくの住んでいるすぐそばだったのだ。さいたまからはるか離れた岩手県の三陸の崖に挟まれた小さな集落で、しかも早朝にただ一人歩いていた人が自分の家のすぐそばに40年も住んでいた人だったという、人知を超えた何かが働いているとしか思えないようなあまりの偶然に、その女性も驚いてしばらく立ち話しに花が咲いたのだった。

「何も起こらないのがロングトレイル」って誰が言ったんだ?(笑)

2 田老の林本酒店

樫内から北上して田老川を渡ってすぐ本ルートから左にはずれ、国道45号線に出ると田老駅すぐ手前の神田川(田老川の支流)沿いに林本酒店がある。

ぼくより前に北上し、アメリカのロングトレイルも歩いているスルーハイカーの本間さんが、雨の中この林本酒店で大変お世話になったという話を聞いていたので、田老に入ったらここに寄ると決めていた。震災後ここに再建したというお店の中に椅子、テーブルにトイレまである小部屋があってそこで休憩させてくれる。
「みちのく潮風トレイル」を歩いているのだというと、笑顔の素敵なご主人がにこやかに迎え入れてくれて、お茶やコーヒーまでごちそうしてくれた。あまりにも居心地がよくて小一時間もご主人と話し込んでしまった。震災で前の店が流されてしばらく仮設にいるときに「みちのく潮風トレイル」が田老を通るという話を聞き、このままなにもしないで仮設にいたら「いつまでも被災者から立ち直れない」と思って奥様といっしょにボランティアとしてルート作りに参加したのだという。そういう経験もあってみちのく潮風トレイルに対する理解が深く、ハイカーに対しても非常にフレンドリーな素晴らしいお店だった。ここで買った「渦巻きかりんとう」がその後のハイクで疲れた身体にとりわけ美味しく感じられた。

林本酒店のご主人
田中菓子舗の「田老かりんとう」

この田老地区では、途中道路工事箇所を歩いているときに、警備にあたっていた若い警察官が突然向こうから走り寄ってきたことがあった。なにか交通違反でもしたのかとびっくりしていると「みちのく潮風トレイルを歩いているんですか? 頑張ってください!」という言葉。前日から雨の中びしょ濡れで歩いてきており、しかも前夜は激しい雨の音、激しい波が岸壁に打ち当たるすさまじい音でほとんど寝られず疲れがたまっていたので、この一言が特に嬉しく心に沁みて、その後の歩みを軽くしてくれたのだった。

田老地区の震災遺構
三王岩

このときは結局田老から更に北上して、摂待を経て岩泉小本まで歩いた。