本稿は、平成25(2013)年6月に「日本の廃道」誌上で公開したレポートのリライトです。 当記事は廃線探索をテーマにしており、不用意に真似をした場合、あなたの生命に危険が及ぶ可能性があります。当記事を参考にあなたが廃道へ赴き、いかなる損害を受けた場合も、作者(マイみちスト)およびみちこ編集室・道の駅連絡会は責を負いません。

所在地 秋田県北秋田市
探索日 平成24(2012)年12月10日

 ■ 10:39 対岸に廃材を発見! 

 ウロのある巨木から500mほど、特に新たな発見もなく、ブル道と化した軌道跡を黙々と進んだ。すると対岸に広そうな疎林の森が現れた。樹木が葉を落していて、見晴らしが利いた。そのおかげだったろう。

対岸の林床に、沢山のリベットかボルトのようなものが打ち込まれた鉄板らしき物体が、見えた。

ま、まさか…

この瞬間、脳裏に浮かんだのは、

「廃車体発見」の5文字! 

 もしも林鉄で使われていた車両を発見できれば、林鉄探索者にとっては現存レール以上の大きな成果となる。それが廃貨車であれば10年分、廃客車か廃機関車であれば……、そうだな、30年分は探索の成果を得た気持ちになれると思う。それは、全国の林鉄ファンが垂涎する偉大な発見となる。それだけに、我々は一気に奇声を上げんレベルで熱された。

ナンだあの鉄板は!
至急確認する必要があるぞ!!!

 軌道跡がこの辺りで対岸へ渡っている様子はなく素直にこちら岸に続いているように思われたが、それでも対岸の廃材の正体を確かめるべく、我々は一人残らずここで3回目の渡渉を行なうことになった。

そして、謎の廃材の間近へ……!

………。 

なんでしょうか、これは?

 残念ながら、廃車体ではなさそうである。なにか門の形に組まれた鉄塔の角の部分っぽい形をしていると思った。これ単体で何かに使えるものではなさそうだが、辺りに他のパーツは見当らず、正体も、これがここにある理由も、判然としなかった。風で飛ばされてくるようなものではないので、なにかここにあった意味があったと思うのだが……。

 この物体の正体について、「門状の鉄塔の角っぽい」と現地で考えたが、帰宅後数年経ってから偶然、同じ形の物体を発見した。昭和61(1986)年に秋田営林局が発行した『百年のあゆみ』という文献の中に。

 上の画像がそれだ。この拡大した部分に、ぴたり一致していると思わないだろうか? 画像に写っている鉄塔は、架空索道の支塔である。索道とは、高低差のある2地点間にケーブルを渡して木材を輸送する装置であり、林鉄と共に各地の山林に設置されていた。画像の撮影箇所は不明だが、秋田営林局管内(秋田県か山形県)であり、撮影時期は昭和34年頃であるらしい。

 仮に我々が土沢で発見したものが、索道の鉄製支柱の一部であったとして、なぜここに一欠片だけ落ちていたのかは、依然として不明である。近くに索道が存在していたのであろうか。林鉄と違って索道は地上の痕跡が少なく、私も専門外であるが、興味深い。

 謎の廃材が落ちていた左岸の森だが、辺りを見回すと、ここにもまるで軌道跡のように見える浅い堀割りの廃道が存在していた。

両岸に軌道跡があった? 

 我々は突如、文字のない森の中で、深遠な謎かけの舞台へ躍り出たらしかった。人数分の脳細胞をフル活用して、状況の整理と理解に努力した。まずは周囲の観察に全力を挙げよう。

 ここで現場の拡大図をご覧頂こう。このように土沢の両岸に軌道跡ともブル道とも見える廃道が存在している。果たしてどちらが軌道跡なのか。それとも両方とも?

 今回の探索は往復となるので、行きでチェック出来なかった部分を帰りに確かめることが出来るのは強みだ。そのため、いまは左岸に新たに発見されたこの廃道を上流へ進むことにした。左岸の下流側や右岸の道については、帰路で確かめよう。

実はこの近くに、今回の探索における

最大の発見

が隠されていたのだが… それに気付くのは、帰り道のことだった。

 ■ 11:10 4度目の渡渉

 軌道跡かブル道か。正体不明の左岸の道だったが、歩き始めて100~200mほどで、またしても土沢の流れに突き当たるようであった。だが、流れの向こう側に道が続いているのが、ここからでも見て分かった。写真だと特に遠近感が圧縮されて、すぐ近くに対岸の道があるように見えると思う。

四たび徒渉すべく流れに近付いた我々を、正体不明の左岸道の正体を教える物体が、待っていた。

林鉄の橋だ!

やったぜ!!!

何度見つけてもやっぱり嬉しい、嬉しすぎる! 木橋の残骸だ! 半壊しているが、逆に言えば、

半分残っている。

半分だけど、架かっている!! これは嬉しい!

 この写真は、半分だけ残っている橋の左岸寄りを振り返って撮影した。奥の掘割りを通ってここへやって来た。ここはブル道ではなかったようだ。左岸の廃道は確実に林鉄の軌道跡だった。帰路ではもう少しこの辺りを詳細に調べて、仮に両岸に軌道跡があったとすれば、それぞれどこへ向かっていたのかを確かめたいと思う。
とりあえず、この橋を渡れば、両岸に分かれていた道が、また右岸に集約するはずだ。

 これは下流側から撮影した橋の側面。本橋は元来、2径間だったようだが、水流を跨ぐ右岸側の径間は完全に流出してしまっていた。残っているのは、事実上陸橋のようになっている左岸側半分だった。また残存部分も既に橋脚からは落橋していて、地面に半分寝そべっていた。この状況で洪水を受けたらひとたまりもないだろう。探索当時(2012年)は辛うじて残っていたが、2021年現在はもう、おそらく……。

 一同が今回初めて遭遇した本格的な遺構であった。本橋について最も印象深かったのは、主桁である丸太の太さである。人物と比較しても、2本の主桁の太さは尋常ではない。朽ちて痩せた現状でも、直径50cmは余裕である。おそらく杉だろうが、こんなに太い杉はここまでの沿線にはなかった。だが、林鉄用の木橋の部材は現地調達が基本である。土沢に林鉄が敷設された昭和の前半には、このような太さの天然杉が、たくさん林立していたのだろう。多くは林鉄によって伐出され、日本の国の礎となり、ごく一部が橋の部材となって現場に殉じた。

次回も、我々の歓喜の声が谷に木霊するぞ!