『本稿は、平成25(2013)年6月に「日本の廃道」誌上で公開したレポートのリライトです。 当記事は廃線探索をテーマにしており、不用意に真似をした場合、あなたの生命に危険が及ぶ可能性があります。当記事を参考にあなたが廃道へ赴き、いかなる損害を受けた場合も、作者(マイみちスト)およびみちこ編集室・道の駅連絡会は責を負いません。』

所在地 秋田県北秋田市
探索日 平成24(2012)年12月10日

◇8:55 土沢の軌道跡入口 

 ネギ沢林道から土沢林道へと乗り継いで、最後に九十九折りを下りきった所が、太平湖へ注ぐ土沢の谷底だ。土沢林道は、ここからは土沢に沿って下流へ向かい、太平湖の湖畔までさらに4kmほど伸びているが、我々が今回探索する森吉森林鉄道土沢支線は、林道とは反対に、この地点から土沢の上流を目指して伸びている。もっと正確に言うと、ここは太平湖畔に起点があった土沢支線の起点より4.2kmの地点であり、起点からここまでの林鉄跡は林道化しているが、これより終点までの推定3.1kmについては、林道化を免れて、山中に取り残されている。それを探索しようというのが今回の目的である。

 ここが阿仁前田の県道入口から44kmの長いアプローチのゴールである。幸いここには車を3台収めておける広場があるので、車を駐めて、歩行による探索の準備を始める。

 準備をしながら、これから進むべき土沢の上流方向を覗いてみると、林道よりも明らかに幅の狭い道が確かに存在していた。この幅といい、平坦な感じといい、見慣れた林鉄の雰囲気が濃厚だ。これこそ土沢支線の軌道跡だろう。
 林道から軌道跡の道へと入る入口には、林業関係者が目印に立てたと思しき「土沢」という文字の刻まれた丸太が、傾いて立っていた。しかし、文字の部分がクマの噛み跡でボロボロになっていた。これは我々に対する警告なのか。

 そんなことに内心恐々たるものを感じた私だが、パーティーのムードメーカーであるミリンダ細田氏だけは、彼のリュックの半分を占めるのではないかと思えるような巨大なタッパを取りだして、早くも持参した麦飯による腹ごしらえをしていた。探索で食べる冷たい麦飯(味の濃いたくわん付き)の美味さは、認めざるを得ない。
 ここに到着して20分後、人数が多いので少し準備に時間がかかったが、一同装備が整い、いよいよ土沢奥地の軌道跡探索へ、初歩を踏み出すときがきた。

◇9:15 探索開始!

 私が先頭となって軌道跡へと踏み込むと、さっそく濡れた笹藪と灌木を胸の高さで掻き分けながら進まねばならない状況だった。道は見えるが、刻まれた踏み跡は新しくない。予想通りの廃道状態である。
 関東近郊などの数少ない林鉄跡と違い、数が多すぎる秋田の林鉄跡には、未だ我々のような趣味者が立ち入っていない(と思われる)路線が少なくないが、アプローチがとても面倒で、かつ地形的に橋やトンネルのような派手な遺構の存在があまり期待できそうにない土沢支線も、きっとそうであろう。少なくとも探索当時、ここを歩いたという話を聞いたことはなかった。
 とはいえ、いくら地図上では地味に見えても、昭和43年という全国の森林鉄道の中でも最末期まで運用されていた路線なのである。その“地力”を誇示するかのように、我々は歩き出して間もなく、明瞭な林鉄の遺構と出会った。

 路盤のすぐ下の斜面に横たわる細い廃レールを発見した! よく見ると、1本ではなく、2本が溶接されて束になった姿をしている。これは廃レールを用いた電信柱の残骸だ。各地で見ているので断言できる。
 レール製の架線柱は、秋田の林鉄跡ではかなりよく見つかるアイテムの一つだ。森林鉄道は基本的に単線なので、正面衝突の危険を避けるために、鉄道でいうところの閉塞に関する取り扱いが必要になる。特に、機関車が入線するような路線では欠かせない。その際の閉塞方式は、いわゆる「通信式」であり、各区間の運行状況を逐次通信するための電信線が必要だった。電信線の多くは軌道に沿って敷設され、単純に拠点間の通信だけでなく、緊急時などには線路沿いの裸の電信線に直接信号を送って通信することもあったという。
 地味な存在だが、電信柱は、林鉄の規模の大きさを測るバロメータともいえる遺構なのだ。

 倒れた電信柱があるということは、電信線があったはず。そう思って見回すと、やっぱりあった。しかも、ちょっとだけ、凄いことになっていた。
 この太い木の幹を、よ~く見て欲しい……。

 太いブナ?の幹に、電信線であった裸の鉄線が、くわえ込まれていた。どのくらい奥まで入っているのか分からないくらい、がっちりと食い込んでいた。
 林鉄跡では、先ほど残骸を見た電信柱の代わりに、線路沿いの立木を用いていた形跡を見ることがある。立木に直接碍子が取り付けられていて、それと分かる。この木に碍子は見当らないが、たぶんこれも電信柱を兼ねさせられていたのだろう。
 流れた年月の大きさを感じさせる光景だった。林鉄は死んでも、当時路傍に立っていた木は、まだまだ元気に育っている。

 電信柱や電信線を見つけた直後には、林鉄跡で最もありふれた遺構といえる、路肩に積まれた石垣も発見!油断すれば見逃してしまいそうなほど低い、丸っこい川石を積み上げただけの石垣だった。
 石垣の存在は、道幅を確定させてくれる効果がある。この道の狭さは、いまだかつて自動車道になったことがない、純粋な軌道跡である可能性が高いことを教えていた。

 まだ出発から5分くらいだが、行く手に盛大な瀬音を響かせる滝が見えてきた。滝というか、少し落差のある瀬と言った方がいいか。軌道跡はこれに動じる様子は無く、依然として川端に伸びていた。

 小滝を過ぎてさらに進むと、川岸がやや険しくなった。そこに、次なる遺構を発見する。路肩に仕込まれた木製桟道の残骸である。
 林鉄当時のものであれば嬉しいが、後に歩道用として作り替えられた可能性もあるので、林鉄の木製桟橋と即断できない。とはいえ、苔生した木製桟橋の廃橋には愛すべきわびさびがあった。
 開始直後から、続々と出現する遺物に、探索する我々のテンションは早くも急上昇。これは地味に、お宝路線の気配ありかもしれん!

 川岸の軌道跡を歩こうとする5人を尻目に、なぜか細田氏だけが喜々として川の中を歩き続けていた。結構な勢いの水量に何度も足を取られているように見えるが、万が一転んでも濡れて困るカメラのようなデジタル装備品を持たないスタイルである彼は、お気軽で楽しそうだった。首から提げた大きなカメラを濡らさないように常に縮こまりながら陸を行く私は、羨ましく思った。

 こっ! これは! 素人キノコは危険だが、この特徴的なルックスとぬめりは、天然ナメコだろう。ナメコの味噌汁が三度の飯より好きな私は、探索を中断して採取したい衝動に駆られたが、やはり万が一ということもあるし、我々が求める森吉の恵みは別のものであることを思いだし、自重した。森吉の探索は、何かのついでに出来るほど、あまくねぇんだ。

次回、恵み深き秋の森に、林鉄の恵みを求め、奥地をひたすら目指す。