本記事では、東北各地で今もなお活躍し、或いは役目を終えて静かに眠る、そんな歴史深い隧道(=トンネル)たちを道路愛好家の目線で紹介する。土木技術が今日より遙かに貧弱だった時代から、交通という文明の根本を文字通り日陰に立って支え続けた偉大な功労者の活躍を伝えたい。

季刊誌「おでかけ・みちこ」2020年9月25日号掲載

 

秋田と五城目はかつてトンネルで結ばれていた

 

太平山地を貫いて走る鉄道がかつてあった

 秋田市の中心市街地を流れる旭川をさかのぼって行くと仁(に)別(べつ)集落があり、そこからさらに中ノ沢という支流を登っていった秋田市と五城目町を隔てる峠の下に、かつて長い隧道が存在していた。抜けると馬場目(ばばめ)川の源流で、渓谷を下ると五城目町の最奥にある北ノ又集落へ行くことができた。
 太平山地を越えるこの一連の径路は、秋田駅から仁別を経て北ノ又までおおよそ30kmあり、現在は県道秋田八郎潟線がこの径路上に認定されているが、仁別から北ノ又までの長い山岳区間は未改良で、近年では相次ぐ災害のため荒廃も進んでいるので、もう10年以上も車の通り抜けが出来ない状態で半ば放置されている。だから今では峠へ近づくだけでも山歩きの準備が必要だ。このような現状からは想像しがたいことだが、昭和10年代から終戦間もない頃まで、この無名の峠を“鉄道”が走っていた。峠を抜ける全長約550mもの長い隧道は、その鉄道の要であった。素掘りの真っ暗な隧道を力強いエンジンの瀑音を響かせながら力走する運材トロッコ列車が、ほぼ毎日のように秋田駅裏の巨大な貯木場と五城目奥地の大森林地帯の間を往復していた。峠の隧道は、交通不便のため利用されていなかった奥地の森林を、林業王国秋田の富へと変換するための偉大な装置だった。
 今回は、仁別森林鉄道奥馬場目線の一部であり要であった、仮称「奥馬場目隧道」を取り上げたい。

奥馬場目林道誕生から廃止までの歴史

 図は、秋田五城目地域に存在した森林鉄道の主な路線を描いたもので、大正15年頃の様子を再現している。当時はまだ、奥馬場目林道も、その要である峠の隧道も生まれていない。
 奥馬場目林道の歴史を語るには、秋田県を代表する森林鉄道の一つである仁別森林鉄道(正式名:仁別林道)のことを最初に述べる必要がある。仁別森林鉄道は秋田駅裏に存在した貯木場を起点に、旭川に沿って仁別に至り、さらに太平山の懐深く旭又まで伸びていた約20kmの本線と、いくつかの支線からなっていた。開設は全国的に見ても早い方で、明治42年に秋田大林区署の手で秋田貯木場~仁別間が開業し、大正元年に旭又まで完成している。廃止は昭和41年と比較的遅く、読者の中にも動いている姿をご覧になった方がおられるかも知れない(うらやましい)。
 大正4年、仁別で本線より分かれて約5kmの中ノ沢支線が開設された。これにより、後に隧道が掘られることになる峠の数キロ手前までレールが伸びた。これが奥馬場目林道開設の呼び水となった。

 図は昭和11年頃の様子を再現した。峠を隧道で貫く奥馬場目林道が初めて登場し、旭又へ向かう本線以上に長く遠くへ伸びている。
 秋田大林区署は大正13年に秋田営林局(秋田県と山形県を管轄)となり、その下部組織として営林署が設置された。仁別森林鉄道は秋田営林署の所管となった。そして昭和8年、秋田営林局は新たな林道の計画を実行に移した。秋田営林署管轄の仁別林道中ノ沢支線を延伸し、長さ約550mの隧道で峠を越えて、隣接する五城目営林署の馬場目川上流部の奥地国有林を開発するとともに、生産された木材を秋田駅へ直に運び出そうという計画だった。これが奥馬場目林道である。
 当時、森林鉄道が峠を越えるケースは稀で(後にも例は少ない)、難工事が予想されたが、最大の難関はいうまでもなく峠の隧道だった。当時の国有林出入りの建設業者には本格的な隧道工事の経験が少なかったため、一般入札によって業者を決めたことが記録に残っている。だがそれでも相当難航したらしく、地元紙『魁新報』の記事を追いかけてみると、昭和8年8月の記事では9年3月頃の竣工予定と報道されていたのに、11年9月に改めて「間もなく完成する見込み」であることを報じる次のような記事が出ている。

 記事の本文冒頭は、「仁別国有林開発百尺竿灯一歩を進め南秋馬場目沢国有林四千町歩の秘庫を開発し林産物の搬出と山村民の福利を迎え直接秋田市と結ばんとする奥馬場目北の又線森林鉄道工事…」とあって、言い回しに大事業完成の高揚感が滲んでいる。記事によれば、新設された林道の全長は約10kmで、昭和8年10月の着工以来3年ぶりに完成するとある。一方で、営林署側の記録をまとめた『国有林森林鉄道全データ東北編』は、奥馬場目林道の完成年について、中ノ沢~銀ノ沢間(5km)が昭和10年度中、その先の北ノ又までが昭和15年度中としている。いずれにしても隧道は昭和10~11年の完成ということになる。

 図は昭和20年頃の様子を再現した。ここで初めて“青色”の路線が登場しているが、赤は秋田営林署、青は五城目営林署の森林鉄道を示している。秋田営林署の越境に刺激を受けたように、五城目営林署側も盛んに路線の開設を行い、両者を合わせた路線網の版図はピークを迎えていた。  奥馬場目林道完成の効果について『五城目町誌』は、「トンネルが完成して北ノ又に軌道が届いたのは昭和11年のことである。皮肉にも奥地が森林軌道によって、県都秋田市とむすばれたのである。これによって馬場目国有林の杉原木は、大量に秋田貯木場へ運ばれるようになった」と述べていて、秋田営林局が期待したとおりの活躍を見せたことが窺える。この路線には機関車も入ったらしく、初期は蒸気機関車が、昭和14年頃からはガソリン内燃機関車がトロッコを牽引して峠を越えたそうだ。  当時、五城目側の人々が、おらほの山の木がどんどん秋田市に取られていると不満を持ったかは定かでないが、奥馬場目林道が終点北ノ又に届いて間もない昭和16年、五城目営林署側でも自前の貯木場を杉沢に設置し、そこから北ノ又まで約5kmの森林鉄道を開設している。これが東北地方では一番遅い昭和47年まで存続することになる杉沢森林鉄道(正式名:杉沢林道)の最初であった。  しかし、秋田駅まで直接運び出す手段が用意されているにも関わらず、なぜこのタイミングで杉沢の貯木場や森林鉄道が開設されたのだろう。その答えは、次の地図で説明しよう。

 図は昭和25年頃の様子である。昭和11年に完成したばかりの峠の隧道が早くも消え去り、奥馬場目林道の名前も消えた。ただしその五城目側の大部分は、杉沢森林鉄道に取り入れられた。 鳴り物入りで登場した奥馬場目林道はなぜ短命に終わったのか。問題点は二つあったと考えている。一つは、峠越えをすることによるコスト的な非効率である。森林鉄道は一般的な鉄道と異なり、往路と復路で運ぶ荷の重さが全く違う。山から降りるときは重い木材を満載し、逆に山へ登るときはほぼ空荷である。普通は山から里へ向かって下り坂が続くので、木材を運び出すときには、重量物を運搬するわりには燃料をあまり消費しない。だが、馬場目林道は木材を満載した列車が何キロもの坂道を登る必要があり(これを逆勾配と呼ぶ)、ここで燃料を大量に消耗するうえ、そもそも非力な機関車では大量輸送も出来ず、生産のボトルネックになった。  もう一つの問題点は、苦労して作り上げた峠の隧道は、地盤に問題があったのか、とても崩れやすかったようだ。『五城目町誌』は、「仁別・北ノ又線は保守がむずかしく、境界付近やトンネルの付近は使用できなくなってきていた。そこで、原木の搬出量を増すために16年から17年にかけて、北ノ又・杉沢線が敷かれ、運材の流れはすべて五城目(杉沢)に向かうようになる」としており、杉沢森林鉄道が早急に整備された原因は、奥馬場目林道の峠区間の保守の難しさが主要因だったとしている。  というわけで、峠を越えての運材は昭和17年頃には早くも中止ないし相当規模を縮小されていたようで、そのまま返り咲きもなく、奥馬場目林道は昭和24年度に森林鉄道から牛馬道という格下の林道へ降格され、森林鉄道としては廃止されている。 結局、峠の隧道が万全の活躍を見せた時期は、昭和11年から17年頃までの戦時中にかかる極めて短期間だったということが明らかになった。道理で、現役時代の隧道の写真が探しても見つからないワケである。

 図は昭和40年頃の様子を表わしている。仁別森林鉄道と杉沢森林鉄道は完全に分離した状態で活躍を続けていたが、既に国の方針として森林鉄道の全廃が打ち出されており、規模の縮小が始まっていた。仁別は昭和41年に廃止、杉沢も昭和47年に廃止され、東北地方から全ての森林鉄道が姿を消した。

峠の隧道にまつわる貴重な証言

 奥馬場目林道は、全国に数千キロもあった森林鉄道の中でも、峠越えを持つ異色の存在だった。北ノ又を出発した運材列車は、7kmにも及ぶ逆勾配(平均勾配2%、最急2.5%)を喘ぎ喘ぎ力走し、峠の隧道を越えると今度は仁別へ向かって3kmも平均4%の急な順勾配をレールとブレーキのきしむ音を響かせながら下った。これは森林鉄道としては稀に見る大きな峠越えで、それゆえ短命を余儀なくされた面もあったが、前向きに評価すれば、この未曾有の事業によって秋田営林局(現:東北森林管理局)はいろいろの経験を積み、効率的な運材方法の研究も進み、土木技術の面でも進歩して、ここよりもさらに長い隧道を含む直根森林鉄道(昭和13年完成、前回紹介)を成功させることができたのかも知れない。その後も秋田営林局は森林鉄道としては稀な長大隧道を建設し、全国最長を更新していく。
 前の節でこの路線の歴史は述べたが、そこから漏れた話を紹介しよう。おそらくこれまでに発表されていない内容である。秋田市在住の鉄道研究家八代伯郎氏が生前に営林署のOBからの聞き取りを書き留めたノート(八代伯郎鉄道資料)に、峠の隧道にまつわるいくつかのエピソードが出てくる。原文のまま転載したい。

【証言1】

秋田五城目両営林署境に峰越トンネルがつくられ森林鉄道を通したが、中央部分が崩壊し、一時運材が中止になった後修復されたが、ふたたび崩壊し、峰越運材は廃止された。

 上記証言は、隧道が崩れやすかったこと、崩壊のために廃止されたことを直接的に述べた唯一のもので、『五城目町誌』が述べた「保守の難しさ」の正体はここにあったと考えている。逆勾配については建設時点で把握されていたはずであり、奇妙に短命に終わった最大の理由は、やはり隧道の崩壊にあったと考えている。

【証言2】

当時、辺地では部落ごと国有林を盗伐し、発覚して、部落民全員が検挙され秋田市まで護送されることがあった部落民が護送されるとき、人目を避けるため、この峰越森林鉄道を徒歩で通って秋田市に出たものだという。

五城目の一番奥が秋田市と直結していた時代のエピソードである。

【証言3】

当時は、現在のような車社会ではなかったので、軌道に便乗する以外すべて徒歩であったので、秋田側から山菜採りにこの地に入った人たちが、このトンネル内で野営することもあったという。峰越トンネルの隠れた効用とでもいえるかもしれない。

 戦後間もなく隧道内の軌道は撤去され、牛馬道に降格されたが、その後いつごろまで隧道は通り抜けられる状態だったのだろう。残念ながら、これについては情報がなく、不明である。ただ、昭和40年代に峠を越える自動車道の林道が開設されており、この工事で隧道を再利用していないことを考えれば、当時既に崩壊していた可能性は高い。普通に考えて、この隧道は林道としても便利な位置にあり、使えるならば再利用したはずだ。

私にとっての峠の隧道、そして最新の現状

 峠の隧道こと奥馬場目隧道は、私が育った場所からそう遠くないところにあって、まだ学生だった90年代からサイクリング(山チャリ)の舞台としてよく走りに行った思い入れの強い土地だったこともあり、成人して廃道探索者としての成果を欲した私の最初期のターゲットになった。この峠に隧道が存在したことは、いろいろな文献に記述があって知り得たが、昭和20年代には早々に廃止されたとされる隧道が、はたして平成の時代に現存しているのかどうかというのは、私が興味を持って調べ始めた2000年頃にはネットにも情報がなかった。それで調べ始めたのだが、図書館で見た戦前の古い地形図に、この隧道が描かれていることを発見したときは興奮した。それを唯一の拠り所として現地の捜索に赴いた。この頃は峠道がいまほど荒れていなかったので、私の探索の主な足である自転車で峠越えが出来た。

 そして何度目だったかの2003年の探索で、ついに「発見!」した。見つかったのは五城目側の坑口で、廃止から50年あまりが経過していたこともあってか、それは本当に“限界を感じさせる姿”で残っていた。どう限界を感じたかというと、これらの写真の通り、もうほとんど土砂に埋れかけていた。しかも坑口のすぐ前を沢が流れており、その沢が堆積させた土砂によって埋れかけている状態だった。埋れかけの廃隧道は珍しくないが、現に水が流れる谷底に口を開けているというのは、今後も速いペースで土砂の供給があるだろうことを考えれば、本当に限界……もう数年経ったら完全に土中に埋れてしまうことを容易く想像をさせる姿だったのだ。
 大変貴重なものを見つけることが出来と思い、それだけで大部満足してしまった。発見当時の私はまだ25才。本格的な廃隧道を探索した経験値がまだ少なく、当然のように水没していた隧道の奥まで入る勇気は出なかった。水深は背丈よりもだいぶ浅かったはずだが、長靴より深い水には入れないという、これはまだ“正常な大人の判断力”を持っていたともいえる。

 だがこの翌年、私は少し強くなってさっそく帰ってきた。水没隧道を攻略するための新兵器を身につけたワケではなく、「濡れてもいいさ」という(大人には少しだけハードルが高い)精神的タフさを手にしての再訪だった。というわけで、この年に初めて五城目側坑口から、臍まである水を掻き分けて、洞奥を目指したのだった。だが、頑張りの結果は、入口からわずか30mほどの近距離に、崩落なのか人為的な埋め戻しなのかはっきりしない閉塞地点があって、それ以上奥へは物理的にどうやっても進めないという残念なものであった。隧道が貫通していないことが明確になった瞬間だった。
非貫通であることは残念だったが、水底の路面上に整然と枕木が並んでいる踏み心地を確認したことは大きな喜びだった。舞い上がる泥で目視が出来なかったものの、確かにここは枕木の敷かれた……つまり鉄道(林鉄)の隧道跡だ! 本当にこんな山奥に鉄道が敷かれていたのだ! ……当時の私にとって、林鉄はまだまだ未知の多い存在で、隧道を見ただけではあまり湧かなかった実感が、枕木に気付いたことで強調された。その喜びと興奮は大きく、私をますます林鉄探索へと駆り立てていったのはいうまでもない。(ちなみに、この日の探索の写真は元データを紛失しており、「山さ行がねが」のレポートで使った小さな画像数枚しか残っていない。ここに掲載したのもそのうちの1枚だ。)

 前年の探索で五城目側の坑口を確認し、その内部が閉塞していることも確かめた。残るは、未だ発見されていなかった秋田市側坑口の捜索である。こちらも数回チャレンジして、ようやく「ここで間違いない!」と思える地点を特定するに至った。このような表現をしなければならない事から察せられると思うが、五城目側のように明確な開口部は残っていなかった。地上の廃線跡を忠実にたどっていくことで行き当たった赤土の斜面に、坑口を崩壊から守るための三つ枠と呼ばれる木枠の残骸を見つけたことで、坑口跡地と特定したのだった。
 ただ、すぐには諦めきれなかった私は、後日に探索仲間1名と共にショベルを持って赤土斜面の掘り返し作戦を敢行した。地中に開口部が現われる一縷の望みを雨のなか3時間あまり追いかけたものの、人力でどうこうなるほど山の土は甘くなく、結局断念したという経緯がある。
 なお、さらなる後日談として、太平山の麓にある「大盛り」でとても有名な某食堂の常連客から、「あの隧道は廃止後にダイナマイトで爆破して埋められた」という驚きの証言を得ている。わざわざそこまですることは通常の廃止の手続きからは考えにくく、信憑性についても明確ではないのだが、さもありなんと思わせるほど秋田側坑口は深く埋没している。

 ここまではいずれも、私のオブローダーとしてのキャリアの中では初期の探索である、それだけに様々な新しい体験を積ませてもらっている。図書館で古い地形図を調べるといった文献調査の基本的な手法、現地の山中を捜索することの試行錯誤、水没隧道の探索方法、そして禁断の発掘作業まで、この隧道との関わりによってヨッキれんというオブローダーは育て上げられたと信じている。

 私は2007年から2019年までは、東京を活動の拠点にしていた。秋田は遠くなり、そもそも「峠の隧道」の探索は私の中で完結していたので、わざわざ再訪することはなかった。だが再び秋田に拠点を戻す決意をしたことで、2004年当時でも限界を感じさせていた五城目側坑口が果たして“今”もあるのかということが、急に気になり出した。そして15年ぶりに再訪して撮影したのが、この写真なのである。

 あの坑口は、案の定、沢が運んだ土砂によって完全に埋め立てられてしまい、もはや少しも開口していなかった。もし今回初めて訪れたなら、いくら経験値を積んでいたとしても、坑口の位置を特定することは絶対に無理だろう。以前の写真と比較することで、樹木の位置や岩の形から辛うじて位置を特定できる状況だ。写真に付した矢印の位置に坑口は埋れていることは間違いない。なお余談だが、アプローチのための道も激しく荒廃していて、以前のように自転車に乗って、あるいはマイカーで近づくということはもう出来なくなっていた。

 15年ぶりの再訪は、特別に思い入れの深い、私というオブローダーを育てた隧道の“二度目の死”を確認する結果になった。私のことはおくとしても、秋田が誇った偉大な林業施設の痕跡が、おそらく永久に地上から消えたのだ。跡を示す1枚の看板すら残さずに。せめて記録だけは残したいと思い、本稿をまとめた。もし現地を訪れる場合には、十分な山の装備を調えていくことをおすすめしたい。

【完】