『このレポートは、「日本の廃道」2013年7月号に掲載された「特濃廃道歩き 第40回 茂浦鉄道」を加筆修正したものです。当記事は廃線探索をテーマにしており、不用意に真似をした場合、あなたの生命に危険が及ぶ可能性があります。当記事を参考にあなたが廃道へ赴き、いかなる損害を受けた場合も、作者(マイみちスト)およびみちこ編集室・道の駅連絡会は責を負いません。』

幻の大陸連絡港と運命を共にした、小さな未成線

 

所在地 青森県東津軽郡平内町

探索日 2010/6/6

 

◆ 2010/6/6 5:38 もうらだいすきかいがん

 

 

 

水産総合研究センターから300mほど、海岸沿いの道路を東へ戻ると、茂浦集落に入る手前に、真新しい海浜公園が整備されていた。「もうら だいすき かいがん」の看板あり。

ここは、青森県が茂浦漁港海岸環境整備事業で整備した施設で、特に由来は案内されていないが、やはり「明治の開港場」の幻を匂わせるものが建造されていた。

 

 

それは、小さな砂浜を両手で抱き込むような形をした、石組みによる2本の優美な突堤だ。その曲線形は、かの有名な横浜開港場の象徴「象の鼻」を連想させるものがあった。角張った埠頭ではなく、石材を台形断面に積み上げた構造は、明治期の防波堤建造物の特徴を再現していた(例:【船川港船入場防波堤】(近代土木遺産))。

ただ、「再現」と書いたように、あくまでもこれは現代の建造物である。だが、敢えてここに明治開港場の印象を持たせるものを建造してあることに、意味を感じた。

おそらく、明治末から大正初期にかけて途上まで建設され、遅くとも昭和42年までは多少の痕跡を留めていたという茂浦築港の完成形は、これをスケールアップしたようなものだったろう。このレプリカの突堤もまた、茂浦築港に強い思い入れを持つ人物の発想に違いなかろう。

 

 

しかし、現代にこれほど濃厚な明治築港事業の余韻を感じさせる構造物を生み出しながら、その海陸の連絡を支えるべく計画されたはずの“鉄路”の気配は、未だ微塵も感じられなかった。

 

 

前進再開。海岸沿いは幅の広い道が一本あるだけで、山が迫る地形である。必然的に、ここに計画されていた鉄道は、現在の道路のと並走していたとしか考えられないが、目に見える痕跡は無い。

進行方向である湾の奥へ目を向けると、茂浦漁港のコンクリート製の現代的な防波堤と、小さな灯台が、海域を仕切っていた。その背後の陸地に茂浦の低い町並み。集落のさらに向こうには、緩やかなシルエットの山並みが連なっていた。

茂浦と東北本線を繋ぐためには、どこかでこの山並みを越える必要がある。県道は、この山越えに海寄りの「アネコ坂」という位置を選んでいるが、鉄路はそれより峰一つ内陸側の鞍部を選んでいたようだ。両者の高度を比較すると、前者は70m、後者は90m強と、後者が少し高いが、敢えてそこを選んだ理由は、トンネルを建設する前提だったことと、単純に近いからだろう。

 

◆ 5:50 茂浦集落内

 

 

 

我々5人の探索メンバーが乗り込んだ2台の乗用車は、ゆっくりとした速度で、茂浦集落へ進入した。集落内は海側と陸側に2本の道が並行していて、写真は陸側の道だが、おそらくこちらが古くからの道だろう。両側に家屋が密集している。対して、海側の道は近年の港湾道路に見えた。

果たして、未成線はどちらの経路に計画されていたのだろう。手がかりが無く、はっきりしない。聞き取り調査の必要性を感じたが、ハイライトとなる隧道を早く探したい我々は、また後で戻ってくるつもりで、一旦集落を通過した。

 

 次回、海から山へと向かう、長い一本道を発見する!