本記事では、東北各地で今もなお活躍し、或いは役目を終えて静かに眠る、そんな歴史深い隧道(=トンネル)たちを道路愛好家の目線で紹介する。土木技術が今日より遙かに貧弱だった時代から、交通という文明の根本を文字通り日陰に立って支え続けた偉大な功労者の活躍を伝えたい。

季刊誌「おでかけ・みちこ」2019年3月25日号掲載

 

鉄道から国道へ、トンネルの華麗なる転身

 東京と青森を結ぶ日本最長の国道4号が、長い旅路の終着地である青森港を、陸奥湾の対岸に見るようになると間もなく、小さな岬をくぐるトンネルが現われる。岬の名は善知鳥崎(うとうまい)、トンネルの名は善知鳥(うとう)トンネルという。鎌倉時代に編まれた「吾妻鏡」に「有多宇末井之梯(うとうまいのかけはし)」が出ている。それほど古くから名の知られた奥州街道の難所だった。

 そんな歴史ある難場をあっという間に通過する善知鳥トンネル(全長112メートル)は、どこにでもありそうな現代のトンネルだ。国道4号の交通量は昼夜問わず多く、トンネルは騒がしい。だから耳を澄ませても潮騒は聞こえないし、まして130年も前に同じ空間を疾駆した蒸気機関車の気配など、感じられようはずもない。だが道を巡る歴史の数奇がここにある。善知鳥トンネルこそは、東京と青森を初めて結んだ「鉄道」の忘れ形見なのだ。

上の写真は現在のもの、下は昭和初期に作られた絵葉書だ。
現在の国道(善知鳥トンネル)の位置を、東北本線が通っていたことが分かる

 かつて海岸の絶壁に木の桟橋(=梯(かけはし))を渡し、細々と通行していた善知鳥崎だったが、明治維新によって交通の近代化が推し進められるようになると、東北の大動脈として道は大々的に改良された。明治8年に波打ち際の岩場を切り開いて最初の車道が完成し、翌年東北巡幸中の明治天皇が通過している。

 次に岬へ挑んだのは文明開化の象徴ともいえる鉄道だった。明治24年、日本初の私鉄である日本鉄道が、政府の支援を受けながら東京と青森を結ぶ鉄道を建設したが、この時、善知鳥崎に初めてトンネルを穿(うが)ち、同時に東北地方縦貫の鉄路が全通した(後に国有化され東北本線となる。現在、青森県内の区間は青い森鉄道線)。

 こうして善知鳥崎の難所は乗りもので通過される「過去」になった。しかし交通の進歩に終わりはない。その後も技術の進化、より早く、より安全にという時代の要請、制圧された地形が時折見せる自然災害という名の逆襲、様々な要因で道路も鉄道も移り変わった。

 昭和8年、鉄道の山側に善知鳥前(うとうまえ)隧道が完成して国道が付け替えられた。次に昭和42年、鉄道が複線化と電化のために国道のさらに山側に作られた長大なトンネルへと移った。このとき廃止された明治以来の旧鉄道トンネルだったが、石造りの重厚な姿のまま国道の歩道用トンネルへ転用されている。使える物は何でも使うのが交通の知恵である。そして昭和55年、この旧鉄道トンネルは大規模な改造によって姿を一新、現在の国道「善知鳥トンネル」へ生まれ変わった。

明治8年に開削された、善知鳥崎を回り込む初代国道の跡。
左側に取り残された石垣が見えるが、当時はここまで道幅があった