本記事では、東北各地で今もなお活躍し、或いは役目を終えて静かに眠る、そんな歴史深い隧道(=トンネル)たちを道路愛好家の目線で紹介する。土木技術が今日より遙かに貧弱だった時代から、交通という文明の根本を文字通り日陰に立って支え続けた偉大な功労者の活躍を伝えたい。
鮑(あわび)漁の収益でトンネルを掘った
本州から北海道へ延びる未完の架け橋のような津軽半島。その突端にある龍飛崎を、文豪・太宰治は昭和19年の小説『津軽』の中で、「そこに於いて諸君の路は全く尽きる」と表現した。しかし今日、龍飛の地中から海底深く潜り込む青函トンネル(全長約54キロ)が海峡の向こう側へ通じている。そんな世界第2位の長大トンネルの在処へと通じる道にあるのが、今回紹介する洞門群(※1)だ。
青森から三廐へと至る津軽半島東海岸の道は、かつて松前道と呼ばれ、蝦夷地(松前藩)への渡海を志す者たちの往来によって栄えた。しかし明治以降は青森に渡航地の地位を奪われたことで、松前道の改修も停滞した。三廐までようやく路線バスが通じたのは大正13年である。龍飛は三廐からさらに3里北に隔たる陸の終着地だ。当時の龍飛道の状況を『三廐村史』は次のように書いている。
……(残り文字数1,600文字以上・写真資料点数10点)
「龍飛三廐間の道路は殆(ほとん)ど道路でなく、全く海浜を通行しておったに過ぎなかった。殊に上宇鉄(うてつ)以北龍飛に到る線においては言語に絶するものがあって、岩から岩へ浪間を縫って飛び歩るき、或は崖浜をよじ登ったり、いんくぐりと称して海中の洞門をくぐり岩の横杭を渡る」……云々。
そのためもっぱら小舟や定期船を利用した海上交通に頼っていたが、海峡の海は荒れやすく、しばしば途絶した。そのような苦境のなか、「文化はまず道路から」を旗印に立ち上がったのは、龍飛道の中間地点にある宇鉄地区の漁業組合長(後に三廐村長を歴任)牧野逸蔵氏であった。
険しい海岸線に車が通れる道を造るには岩場に洞 門を掘るより手はないが、それには多額の資金が必要になる。しかし当時の龍飛道は村道で、県の補助は期待できない。そこで編み出した妙案が、当時の宇鉄漁業組合が大きな成功を得ていた鮑の「潜水機事業」(※2)の毎年の利益金の大半を、新道が完成するまでその工事に注ぎ込むことだった。
工事はすぐに始められた。特に難関であった上宇鉄から龍飛崎までの区間には、13本もの洞門が連続して掘り抜かれた。そして着工6年目の昭和4年に全線が完成し、洞門群を見渡せる龍飛漁港の一角に巨大な道路竣成記念碑が打ちたてられた。後に牧野逸蔵氏の胸像も加わっている。「鮑道路」とあだ名されたこの新道により、龍飛地区は今日ある発展の端緒を手にしたのである。
かつて13本あった洞門は徐々に減少
開通当初の洞門群の形や大きさは不明だが、乗用車が1台通れる程度の小さなものだったようだ。長さはどれも短く、長いものでも40メートル、多くは20メートル前後だった。昭和34年の路線バス運行開始以前に全ての洞門が拡幅を受けている。また短い洞門の中には拡幅と同時に屋根が取り除かれ、トンネルでなくなるものも出てきた。昭和42年の記録を見ると、13本のうち第3号が既に欠番になっている。
青函トンネルの大工事も洞門群に大きな影響を与えた。龍飛での工事は昭和41年に本格化してから約20年間続いたが、三廐と龍飛を直結する専用工事用道路(現在は県道として解放されているアジサイロード)が完成したのは昭和53年のことで、それまでは洞門群が唯一の進入路であった。また昭和50年の国道昇格も整備に拍車をかけた。
現在は13本のうち6本が撤去により消失し、2本が廃止され、1本が旧道化(通行は可能)している。そして4本が今なお国道の現役トンネルとして活躍を続けている。
今も新鮮な鮑が龍飛名物のひとつに数えられている。訪問する際にはそのついででも結構だから、鮑が造った洞門も味わってみてはいかがだろう。