このレポートは、「日本の廃道」2005年9月号、10月号、11月号に掲載した「特濃!廃道あるき」をリライトしたものです。
当記事は廃線探索をテーマにしており、不用意に真似をした場合、あなたの生命に危険が及ぶ可能性があります。当記事を参考にあなたが廃道へ赴き、いかなる損害を受けた場合も、作者(マイみちスト)およびみちこ編集室・道の駅連絡会は責を負いません。

所在地 岩手県八幡平市(市道 藤七温泉線)
探索日 平成17(2005)年7月24日

H地点
2005年7月24日9:43

夜沼川を徒渉した先も、微かに2本の轍を刻まれた車道が、覆い被さるような笹藪を縫って続いている。路面も所々が泥濘んでおり、そのうえキツイ上り勾配がある。先が全く見通せないジャングルロードだ。

こんな道に轍を刻んだのは、地元を知り尽くした山菜採りか、それとも愛車を身体の一部のように操って険路の走破を楽しんだクロカン乗りか。後者にとってここは楽しい道だろう。私もマウンテンバイクで山道を走破するのが大好きだから気持ちは分かる。

既に登山者からも見放された古い「ジープ道」に、密かに轍を刻んだ何者かにシンパシーを感じつつ、我々は歩いて行った。

これは夜沼川支流。やはり道は全く無造作に徒渉していた。

I地点 9:47

出発から約30分で1.8km前進し、海抜1020m付近で、唐突に赤茶けた広場に出た。車10台分ほどの広さに赤茶けた地面が露出していて、なぜか草木が全く生えていない。もしかしたら何か鉱物的な作用で草木が育たない環境なのかも知れない。地形は盆地で風がなく、四方八方から蝉の機関銃が絶え間なく降り注ぐ。高原とはいえ気温は高く、休憩しても汗は引かなかった。

広場の傍らに壊れたルーフキャリアが落ちていた。
クロカン車のオトシモノか。

J地点 10:03

広場を出てさらに10分ほど歩くと、ずっと続いていた上り坂が終わり、緩やかな下りに転じた。まだまだ目指す藤七温泉は遙か上だが、大揚沼がある凹地に近づいたせいである。

周囲の様子も変化した。林床を埋め尽くす高密度の笹藪に変化はないが、樹冠を形作る木々が高くなり、全体に鬱蒼とした森となった。道は日陰がちとなり、路上の藪がすっかり綺麗になくなった。まるで日常的に人や車が行き交う道のように平穏な路面状況だが、実際の交通量は、これまでの道と同様に極小であるはずだ。

この路上の不思議な藪の薄さが、単に日陰の作用によるものだけでないことが発覚したのは、この直後であった。

この道、なんか敷かれてないか……?

妙に藪のない路面に、沢山の石が“敷かれて”いることに気付く。それも、砂利のように適当に撒いてあるのではない。こぶし大より大きな不揃いの岩石を、道幅の両端を残した中央1.8mほどの幅に、たいへん丁寧に敷き詰めてある。

石畳なのである!

面白い! これは予想外だ! 石畳によって舗装されている廃道は、滅多に見るものではない。都市部においては、かつて石畳舗装は珍しいものではなく、いまでも歴史性や景観を重視して石板を敷き詰めた石畳舗装がよくあるが、地方の山岳道路における原始的な石畳舗装はそれよりも遙かに貴重だ。江戸時代、幕府は主要な街道の難所に石畳の整備を指示しており、東海道の箱根峠をはじめとして各地の街道に石畳が残っており、その多くは「歴史の道」として観光名所になっている。また、牛車の通行が許可されていた数少ない区間にも石畳舗装が行われた記録がある。

だが、わが国における明治以降の道路舗装は、都市部における石畳舗装を除くと、細かな砕石を路面に敷き詰める砂利道や、これを転圧して強度を高めたマカダム舗装、さらにその上にコンクリートやアスファルトを敷き詰めた舗装(一般的に舗装道路と呼ばれているのがこれだ)が基準となり、山岳道路における石畳舗装は、ほとんど新設されることがなかった。

だが、ここに密かな石畳舗装が行われていた。

この登山道であり、県道でもあった道路が、「ジープ道」として、最低限の車道としての整備を受けた時期、すなわち昭和30年代に、この石畳は建造されたものと想像している。

敢えて一般的な砂利道にしなかった理由は分からないが、石畳は耐久性が非常に高く、水捌けが良いので湿地での施工にも向いている。そうしたことが、大揚沼に隣接するこの低地での登山道整備に、珍しい石畳を採用させたのかも知れない。 

貴重な石畳舗装の耐久性はやはり凄まじく、この区間の道は、驚くほど綺麗によく残っていた!

次回、幻想の地、大揚沼を目撃する!