『このレポートは、「日本の廃道」2011年12月号および2012年1月号に掲載された「特濃廃道歩き 第36回 深浦営林署 追良瀬川森林鉄道」を加筆修正したものです。当記事は廃線探索をテーマにしており、不用意に真似をした場合、あなたの生命に危険が及ぶ可能性があります。当記事を参考にあなたが廃道へ赴き、いかなる損害を受けた場合も、作者(マイみちスト)およびみちこ編集室・道の駅連絡会は責を負いません。』

未だ知られざる

白神山地の森林鉄道に挑む。

 

所在地 青森県西津軽郡深浦町

探索日 平成23年6月18日

 

◇林鉄王国・青森における地味な界隈、西海岸深浦地区

東北森林管理局資料「管内森林鉄道一覧」より作成

 我が国における初の本格的な森林鉄道である津軽森林鉄道があった青森県は、日本三大美林の一つに数えられる青森ヒバの産地として全国屈指の林業県であった。県内山林の大半は国有林であり、極めて商品価値の高い木材の大規模伐出を目的に、大量輸送手段である森林鉄道が各地に大々的に開設されていた。昭和40年代にトラック輸送に置き換えられるまで、全国屈指の“森林鉄道王国”であったといえる。中でも明治42年に全長67kmに及ぶ、津軽半島を半周する幹線を完成させた津軽森林鉄道は、我が国初の蒸気機関車を動力とする本格的な森林鉄道として記念すべき存在で、廃止されてから時間が経過した今日でもよく知られている。

 だが、今回紹介する森林鉄道は、そんな青森県にありながらマイナーな存在だった。県内の森林鉄道は津軽と下北という大きな二つの半島部に集中しており、それらから外れた路線は、あまり注目されてこなかったように思う。

 県西部の日本海に面する深浦町内(平成の合併まで存在した旧岩崎村と共に青森営林局深浦営林署の管内だった)には、五能線の駅を起点に、白神山地の奥深くを目指す森林鉄道が4路線もあって、うち3路線は10kmを越える長い延長を有していた。

追良瀬川森林鉄道は、そうした深浦地区の林鉄の一つであり、開設当初からガソリン機関車が運行する本格的なものであった。

 

◇深浦営林署管内森林鉄道の特色

 

東北森林管理局資料「管内森林鉄道位置図」より深浦周辺を転載のうえ、作者加工。

 深浦営林署管内には、合計6路線、総延長48kmの林鉄路線があった。これらの路線の開設および廃止の年度を見ると、南の路線から順次敷設され、同じ順序で廃止されている。すなわち、秋田県と接する最南部の津梅川林道の大正9年開設を嚆矢とし、昭和元年の笹内川林道、同10年の吾妻川林道、そして同11年の追良瀬川林道へと次第に北進するのである。また、廃止は津梅川(昭和34年)、笹内川(同39)ときて、吾妻川と追良瀬川は昭和42年である。

 吾妻川と追良瀬川という、ともに10kmを越える長い路線が昭和10年と11年に相次いで開設されている背景はなんだろう。ここには昭和9年に深浦~陸奥岩崎間を最後に全通した、国鉄五能線の存在が大きく関与しているように思われる。

 昭和11年に編纂された「五能鉄道沿線案内(北辰日報社)」は、津軽西海岸を循環する五能線が全通した意義について、沿線の開発が進むことを述べているが、深浦町については、具体的に次のように書いている。

海には無蓋の魚族あり、沿岸の勝景は世人の推賞措かざるところ、陸には森林原野の資源を有し作物の生育は勿論、造林とて最も好適である。しかも深浦漁港修築と五能線開通と相俟って、これら資源の利用価値更に倍加するに至った。

 

 深浦一帯は漁業地としても著名で、近世以来一貫して、この地域の中心的産業となっている。ハタハタ、マグロ、タイその他の漁業は現在も盛んであるが、林業地としても有望だと述べられている。当地方は青森県内では比較的に温暖で、かつ多雨で、樹木の生長に適する。世界遺産となった日本屈指の原生林地帯である白神山地は、深浦町の大部分を占める。

 深浦地区の森林鉄道はいずれも海岸線の河口部にある五能線の駅を起点とし、川に沿って白神山地の上流を目指すというワンパターンの路線である。いずれも、白神山地からの伐出を目論んだものであった。

 

◇追良瀬川と地域生活の関わり

 

 追良瀬川は、白神山地の奥深く、いわゆる「コア・ゾーン」として一般人の立入が許されていない保護地域に源流を持つ。この神秘の山から沁みだした水があつまり、延々34kmの清流となって日本海へと流れ出ている。「おいらせ」の名前は、奥へ行くほど瀬が多い川に由来するという説があるが、実際の渓相もその通りである。

 追良瀬川森林鉄道は、追良瀬川の下流側の半分にあたる17kmに沿って敷設された。終点より上流には、白神ラインと呼ばれる県道や、発電用の小規模の堰堤がある程度で、観光地もなく、ほぼ手つかずの原生林地帯が広がっている。また、沿川集落も非常に少なく、河口の追良瀬集落と、5km上流の松原集落しかない。流域人口は500人にも満たないであろう。追良瀬川は秘境である。

 しかしそれでも、この川と暮らしの関わりは希薄ではなかったようだ。第一に、前述した林業である。近世には既に開発が行われ、追良瀬村からツキノキ、スギ、ヒノキなどが深浦湊を通じて上方へと移出されていたという(深浦町史)から、林鉄による開発の前から伐採があったことになる。おそらく、この当時の運材は、川狩り(丸太流し)であったろう。

 第二は、内水面漁業である。明治40年に、地元漁協が追良瀬川でサケ・マスの稚魚を放流した記録があり(角川日本地名大辞典)、昭和10年頃にも、「毎年7月1日より10月末日まで鮎釣りの太公望達で賑ひ」(五能鉄道沿線案内)とあって、魚族が豊富だったようだ。明治初年の「新撰陸奥国誌」は、追良瀬村について「土地悪くかつ田畑少けれは山海の業を専とす」と生活ぶりを描写している。

 

 

◇追良瀬川森林鉄道の路線史

 

 深浦営林署管内では最長の路線であった追良瀬川森林鉄道の消長について、平成23年8月に秋田市の森林展示館で行われた「森林鉄道展」で公開されていた東北森林管理局所蔵の資料から抜粋して紹介しよう。

 

追良瀬川林道

①昭和11年、追良瀬駅前追良瀬貯木場から追良瀬山国有林37、39林班境濁沢落合までの11,542m

(9‰、30‰、25m、2.1m……これらの数字は順に、平均勾配、最急勾配、最急曲線半径、路盤幅員)を開設。

②昭和15年、1,332m(10.1‰、17‰、25m、2.1m)を延長開設。(12,879m)

③昭和19年、既設林道終点から湯ノ沢落合までの1,909m(17.6‰、37‰、15m、?)を延長開設。(15,652m)

④昭和23年、318mを延長開設。(15,970m)

⑤昭和26年、44林班までの660mを延長開設。(16,630m)

⑥昭和27年、44林班下松渕沢対岸までの380m(14.7‰、20‰、20m、2.1m)を延長開設。17,010m)

⑦昭和33年、5822mを廃止。(11,188m)

⑧昭和34年、2,001mを自動車道2級に格上げ。(9,187m)

⑨昭和35年、2,001mを自動車道2級に格上げ。(7,186m)

⑩昭和37年、1,606mを廃止。(5,580m)

⑪昭和40年、1,079mを廃止。(4,501m)

⑫昭和42年、全線を廃止。

 

 以上①~⑥までの「延伸」を現在の地図上にプロットしたのがこの図である。

 路線長の最盛期は、昭和27年から33年までの比較的に短い期間で、この期間は全長17kmに及んだ。だが以降は次々と短縮されていき、昭和42年に最後まで残っていた4.5kmも廃止され、全廃された。

 

 

◇追良瀬川森林鉄道跡の現状と、探索計画

 

【全体図】

 昭和42年に全廃された追良瀬川森林鉄道の跡は、最近の地形図にはどのように表現されているだろうか。探索前にチェックした。しかし、17km分の地形図を拡大して見てもらうのは大変なので、ここでは注目すべきポイントをピックアップしてご覧いただく。

 

【拡大図1:起点付近】

 軌道はもちろんだが、起点だった追良瀬貯木場も既に存在しないようだ。貯木場は追良瀬駅の隣地にあったと予想するが、現地に何か痕跡はあるだろうか。

 軌道は、駅近くの貯木場から始まり、追良瀬集落内を抜けて、さらに国道101号と交差して、追良瀬川の上流へ向けて伸びていたはずだが、地図からはどう通っていたのか判断できない。この解明は現地調査の最初の課題となろう。

 

【拡大図2:松原付近】

 起点から5km地点を過ぎた辺りに、追良瀬川沿いでは早くも最奥の集落である松原地区がある。地形図だと、集落を通り抜ける道は1本だけしかないが、おそらく軌道跡を転用したものだろう。緩やかな曲線に軌道跡らしさが感じられる。車道化しているとなると、現地での探索の成果は乏しいかも知れない。

 

【拡大図3:濁水沢付近】

 起点から10km以上奥までの大部分の軌道跡は道路に転用されていると思われた。これが変化するのは約12km地点の濁水沢合流地点である。そこで追良瀬川沿いの道は、徒歩道を意味する破線に変わっている。これは廃道化した軌道跡が描かれるときの良くみる表現だ。

 今回の探索のメインは、この濁水沢出合から終点までの約5kmの区間になると考えられる。

 

【拡大図4:湯ノ沢付近】

 追良瀬川に沿った徒歩道は、濁水沢出合から約4km上流の湯ノ沢出合の少し上まで描かれている。ちょうど起点から数えれば16~17kmあたりであり、おそらく軌道の終点もこの辺りだろう。湯ノ沢付近には追良瀬川の本流を渡るように描かれている地点があり、近くには堰堤の記号もある。もしこの橋が現存していれば大きな収穫になるだろう。

なお、湯ノ沢に沿ってこの軌道湯ノ沢支線(全長380m)が敷設されていた記録がある。これも合わせて探索の対象としたい。

 

 以上のような事前の地図調べから、今回の探索計画を決定した。出発地は追良瀬駅とし、起点の痕跡を調べた後、車道化により遺構の期待が持てない部分を自動車によって省略して濁水沢出合を目指す。そこから徒歩による本格的な探索を、終点まで往復で行う。

 探索に参加したメンバーは、私とミリンダ細田氏HAMAMI氏という気心知れた3人である。探索日は、平成23年6月18日と決まった。(後に、この探索時期を選んだのは、あまり上手ではなかったと分かる)

 

 それでは、次回からレポートの本編が始まります。マイナー路線ながら、全ての林鉄ファンが喜ぶ“あるもの”が残っていたので、お楽しみに!

 

 

 次回より、本編開始!