『このレポートは、「日本の廃道」2013年7月号に掲載された「特濃廃道歩き 第40回 茂浦鉄道」を加筆修正したものです。当記事は廃線探索をテーマにしており、不用意に真似をした場合、あなたの生命に危険が及ぶ可能性があります。当記事を参考にあなたが廃道へ赴き、いかなる損害を受けた場合も、作者(マイみちスト)およびみちこ編集室・道の駅連絡会は責を負いません。』

【机上調査編 第2回】より、前述の「日本の廃道」では未公開の、完全新規の執筆内容となります。

 

幻の大陸連絡港と運命を共にした、小さな未成線

 

所在地 青森県東津軽郡平内町

探索日 2010/6/6

 

【机上調査編 お品書き】

 

第1章.会社設立と計画

第2章.工事の進捗と挫折

第3章.復活の努力と解散(←今回)

 

第3章.復活の努力と解散(続き)

 

今回も引き続き、東津軽鉄道が残した路線実測図(平面図や縦断面図)をもとに、同社が計画していた鉄道のルートを確認すると共に、現地探索の検証を行う。

前回、平面図上の計画ルートを出来るだけ忠実に地形図上に再現する作業を完了させたので、今回は、起点の山口集落付近を見ていこう。

 

東津軽鉄道計画ルート検証 その1(山口起点~1マイル地点)

 

 

 

平面図には4分の1哩(マイル、1哩は1609m)ごとに距離表示がある。ここに掲載したのは起点(0哩)から1哩地点まで平面図と、それを元に最新の地形図上に再現した計画ルート(赤線)および、現地探索で私が推測した予測ルート(青点線)だ。

 

 

この区域の現地調査では具体的な未成線の遺構を何も見ておらず、おそらく建設自体が行われていないと判断している。その根拠は、地区内での古老からの聞き取りや、古い航空写真などだ。だから、予測ルートを描いた根拠も薄弱で、起点もなんとなく西平内駅を選んだし、その先も、地形的には平坦でどこでも通れそうなものだから、真っ直ぐ水田を突っ切っていくように描いた。

 

対して、今回明らかになった平面図のルートは、さすがに一致していない点が多かった。

まず起点であるが、西平内駅から1kmほど東へ東北本線(現青い森鉄道線)を並走した先の線路北側脇地を予定していたことが分かった。

その位置が現在どうなっているかを現地探索では確認していないが、グーグルの航空写真を見ても特に何かがある感じはない。

 

 

 

画像は、西平内駅構内の跨線歩道橋から見た東方の線路風景だ。現地調査日(2010年6月6日)の早朝に撮影したので逆光が激しいが、この直線の線路の見果てる辺りに、東津軽鉄道の起点が予定されていた。

 

なお、東津軽鉄道やその前身で同じ計画路線を持っていた茂浦鉄道は、いずれも起点において東北本線と接続することを計画の念頭に置いており、そこに大字名を取った山口駅を設置するとしていた。工事のゼロ距離地点と、山口駅の中心位置は違っていたはずだが、図面には山口駅の位置が示されておらず、具体的に駅をどこに置くつもりだったかは図面からは読み取れなかった。もちろん、図面上で東北本線と計画線が並走している1kmほどの区間のどこか、おそらく起点寄りに駅を予定していたと考えて良いはずだ。

また、この鉄道が実現していれば、当然、西平内駅が今の位置に開駅されることもなく、同駅を中心とする小豆沢集落の姿も、今とは異なったものになったはずである。

 

 

写真は西平内駅構内跨線歩道橋から見た西方の線路風景である。計画線はこの辺りから右へ緩やかなカーブを描いて、東北本線を離れていく。

現在、計画線上には小豆沢集落の家並みが立ち並んでいるが、平面図にはまだ家屋が見られず、立ち退きもなかった模様だ。

 

 

小豆沢の十字路(位置)の風景。右に見える道(青森県道207号小豆沢西平内停車場線)が計画線の進行方向に向いており、写真中央に見える小屋の左の辺りを手前から奥へ計画線が貫いている。集落内では用地買収しか行われていなかったと思われるので、特に痕跡は見られない。

 

この交差点を過ぎると、計画線は現在の県道とほぼ重なるように、何度か平面交差をしながら進み、300mほどで1哩地点(位置)を迎える。この辺りは平面図でも線路と道路が何度も交差するように描かれているのだが、実用上不便であり、当然道路の付け替えが行われたはずだ。しかし、それが行われた形跡が今の道路に見られないことは、この地での鉄道工事が実行されなかった小さな証左といえそうだ。

 

次回、1哩地点の先へ