本記事では、東北各地で今もなお活躍し、或いは役目を終えて静かに眠る、そんな歴史深い隧道(=トンネル)たちを道路愛好家の目線で紹介する。土木技術が今日より遙かに貧弱だった時代から、交通という文明の根本を文字通り日陰に立って支え続けた偉大な功労者の活躍を伝えたい。
季刊誌「おでかけ・みちこ」2020年03月25日号掲載
人が造り出した偉大な”へつり道”
自然豊かな下郷町を流れ下る大川ラインのハイライトが、塔のへつりだ。川の侵食によって絶壁がコの字型に削り取られ、天然の片洞門を造形した奇景である。へつりとは、この地方の方言で危険な崖を指すが、登山用語でも垂壁の横断をへつると言う。
大内宿を通っていた会津と関東を結ぶ幹線道路(下野街道)が、距離と高低差に勝る大川沿いに移ったのは、明治17年のことだった。この年、馬車という形で南山に初めて車両交通をもたらした会津三方(さんぽう)道路が、県令三島通庸(みちつね)の強力な指導の元、南会津郡民の血と汗と出税の結実として完成したのだ。現在の国道121号の原形である。
谷を切り開いたこの新道には、へつりと呼ばれる難所がいくつもあった。塔のへつりは悠久の時が作り出した恐るべき天然の造形だったが、同じように崖をくり抜いた車道が、今度は人の力で生み出されたのだ。中でも弥五島と栄富の間の河岸にそびえる比戸岩の難所には、短い隧道(すいどう)を持つ〝へつり道〞が掘り抜かれた。この県内最古級の隧道が、現存する。
当時、隧道はまだ珍しく、通庸の依頼によって菊池新学が写真を、高橋由一が絵画を残している。それらの記録を現状と見比べると、120年以上経過しているにもかかわらず、ほとんど形を変えていないことに驚かされる。昭和41年に対岸を迂回する現在の国道が開通するまで、この崖路をバスやトラックが行き交っていた。静かな廃隧道の隣で、ときおり思い出したようにけたたましい音を響かせるのは、昭和12年開業の会津鉄道だ。
なお、この隧道の名はいくつかあって一定しない。「下郷町史」は通称比戸岩隧道、道路施設現況調査は橋坂隧道、古い記録では由一が岪(へつり)岩隧道と書いているほか、新学の記録には非道隧道とあって、これはなかなか強烈な字面だ。
大川筋随一の難所だった比戸岩だが、実は通庸に先駆けて挑んだ勇者の記録がある。三方道路の事績を記した「南山新道之記」によると、明治13年に比戸坊なる旅の僧が、ほとんど独力で岩場を削り、最初の小径を通したという。これに触発された有志が集まり、同年内に、小径の上部にやや広い牛馬が通れる道を開通させたそうだ。しかし、三方道路着工のわずか2年前のことであり、これらは幻の新道となった。
天衝く絶壁に累代の道が彩なすこの人間賛歌の絶景は、対岸の橋坂地区から安全に眺めることが出来る。