「おでかけ・みちこ」2019年12月25日掲載記事

松島と平泉を繋ぐ道

北上川の渡しと川湊があった天王船場跡。道の駅・上品の郷近くにある(石巻市鹿又)

源之助『道中記覚』

 江戸時代、庶民が「生涯に一度でも」と夢見たのが、人気の寺社詣(もうで)と名勝をめぐる旅だった。いまの東北では出羽三山、恐山、山寺、金華山、松島などが人気だった。全国に目を向けると伊勢神宮、金刀比羅宮(ことひらぐう)(金毘羅さん)を筆頭に、高野山と熊野三山、日本三景の厳島神社と宮島などがあげられる。その旅は仲間と講を組んだり、金銭に多少余裕があるものは随行者を伴に歩いたりした。
 生涯一度の旅となるかもしれないため、筆まめな者は「道中記」を著わした。宿泊先と歩いた距離程度の簡易なものから、毎日の食事、目についた景色や見物先、かかった金銭、感想などを詳しく記したものが、庶民の手により残されている。
 平成10年に、岩手県紫波町にある水分(みずわけ)公民館が発行した『道中記覚』がある。地元・山王海の組頭を務めていた下ノ屋敷の源之助が著わしたもので、文化7年(1810)12月15日に出立し約100日間、松島、仙台、鹿島神宮、成田山、江戸、秋葉神社、伊勢神宮、熊野三山、高野山、奈良、京都、大坂、金毘羅宮、宮島、善光寺などをめぐる長丁場の旅だった。
 源之助は自宅を出た後、石鳥谷から奥州街道を南下し、一関街道に入った。おそらく松島見物するためだったと考えられる。一関街道では金沢(かざわ)の隣の宿場、涌津に一泊し、翌日は石巻に宿泊した。
 源之助が泊ったのは食事のつかない木賃宿(きちんやど)がほとんどで、持参した米を炊いて、おかずはイワシの目刺しや漬物などで済ませただろう最安値の旅だった。しかし、この本を活字化をした村谷喜一郎氏は解説で「奥州山家(やまが)の主従にとっての西国は、この世の極楽、 補陀落(ふだらく)だったに違いないと」と記している。

 

愛宕山東側、北上川堤防上にある板碑や石碑(石巻市鹿又)

 

柳津虚空蔵尊 日本三柳津虚空蔵尊の一つとされている(登米市津山町)

 

明治21年建築の旧登米高等尋常小学校 現在は教育資料館として公開されている(登米市登米町)
お鶴明神 北上川治水工事に伴い、人柱となったという伝承がある(登米市中田町)

 

藩と庶民の重要路

 宮城県石巻と岩手県一関を繋いでいた一関街道は、一関側では石巻街道と呼ばれていた。現在の国道45 号と342号にほぼ重なるルートだったが、気仙沼街道の起点となっていた金沢から北は、一関に向かう市道に沿っている。
 一関街道は奥州街道の脇街道的利用がされていた。仙台で奥州街道と別れ、一関でふたたび奥州街道に合流するため、仙台から松島を通り平泉を目指す旅人や、一関より北に住む人々が、金華山詣でに利用したりした。街道に添うようにして北上川が流れていたため、途中の宿場は街道と舟運で賑わいをみせていた。
 また、仙台と石巻を繋ぐ石巻街道の終点であり、気仙浜街道、金華山道、佐沼街道、気仙沼街道のほか、金沢宿と奥州街道の有壁宿と結ぶ脇道が延びるなど、仙台藩や旅人にとって重要路の一つとなっていた。

 

一関街道の松並木 道路沿いの所どころに残されている(一関市花泉町)
源之助が宿泊した旧涌津宿 金沢宿の隣の宿場だった(一関市花泉町)
「芭蕉行脚の道」碑 金沢から一関に向かう市道沿いに立つ(一関市花泉町)

 

芭蕉も通った脇街道

 歌枕の地をめぐる「奥のほそみち」の旅で、芭蕉と曽良も、仙台〜松島〜石巻〜一関と平泉に向かうにあたりこの道を利用した。
 芭蕉一行は石巻で一泊した後、一関街道を進み翌日は「戸伊摩」に泊まっている。戸伊摩とは現在の登米(とよま)のことで、宿泊した検断の庄左衛門屋敷は北上川の堤防工事のため残されておらず、「芭蕉翁一宿跡」と彫られた石碑が立てられているのみだ。このほか、街道沿いには芭蕉が通ったことを記念する碑や看板が多数見られ、芭蕉の人気の高さを教えてくれる。

 

 

街道周辺の「道の駅」

厳美渓(岩手県一関市)、林林館(宮城県登米市)、三滝堂(宮城県登米市)、津山(宮城県登米市)、みなみかた(宮城県登米市)、米山(宮城県登米市)、上品の郷(宮城県石巻市)

 


街道コラム

金沢宿の取り組み

 一関街道中、最も栄えた宿場の一つが金沢宿だった。古い建物は残っていないが、家々には宿場時代からの屋号が書かれた小ぶりな看板が設けられ、駅逓所跡、肝煎宅跡、伝馬所跡、代官屋敷跡などの文字が見られ、宿場の雰囲気を伝えてくれる。毎年9月に行われる金沢八幡神社の例大祭では「大名行列」も行われ、人々が宿場の存在を大事にしていることがわかる。