本記事では、東北各地で今もなお活躍し、或いは役目を終えて静かに眠る、そんな歴史深い隧道(=トンネル)たちを道路愛好家の目線で紹介する。土木技術が今日より遙かに貧弱だった時代から、交通という文明の根本を文字通り日陰に立って支え続けた偉大な功労者の活躍を伝えたい。

季刊誌「おでかけ・みちこ」2018年12月25日号掲載

 

陸の孤島に、自動車交通をもたらしたトンネル

三陸海岸の最南端にあり、太平洋へ鋭く突き出た牡鹿(おしか)半島は、その先端に浮かぶ信仰の島・金華山をはじめとする多くの属島とともに、リアス式の海岸美で知られ、三陸復興国立公園を代表する景勝地として、毎年多くの観光客が訪れている。

現在は半島の隅々に道路が通じ、不便さをあまり感じないが、大正時代の『牡鹿郡誌』には、「陸路によるものは山坂の高低著しきに苦しみ、海路によるものは常に荒波駿濤(しゅんとう)に悩まされ」とあって、かつて仙台藩が遠島(とおしま)と呼んだ半島一帯の隔絶された様子がうかがえる。

半島の付け根にあたる渡波(わたのは)から、表浜と呼ばれた半島西岸の浦々を通って鮎川へ至り、さらに金華山への渡し場であった山鳥渡(やまどりわたし)に達する道は、金華山道(きんかざんどう)と呼ばれた。峠の多い難路だったが、その最大の難関が小積(こづみ)峠であった。高さは150メートルほどだが勾配は険しく、最後まで車道を阻み続けた。

この金華山道の本格的な改修は、大正2年の「渡波町他三ケ村道路組合」結成に始まる。工事は翌年に渡波側からスタートし、大正4年には風越峠(かざこしとうげ)を越えて桃浦(もものうら)まで開通した。だが当時、終点にあたる鮎川村では、あまり工事に熱心でなかったという。なぜなら、それまで陸路が不便であるがゆえに、金華山参詣客の大半が、渡波や石巻から鮎川まで海路をとっていた。鮎川は半島随一の良港として、海路に恵まれていたのである。だが、大正12年頃に石巻や塩竃から金華山への直通航路が開設されると、年間10万人もの参詣客で賑わった鮎川は、まるで火の消えたような静けさになってしまったのである。

石巻側坑口。シンプルな外観だが、精緻に組まれた石のアーチが美しい。立派な御影石の扁額には、隧道名と完成当時の県知事の名が刻まれていた
隧道に近い鮎川側の旧道風景。かつては大型観光バスが列をなした風光明媚な峠道も、自然へと還りつつある
萩浜地区の県道沿いにいまも残る「金華山道路改修紀念碑」

ここに至って金華山道の改修は、鮎川村緊急の課題となった。だが、工事の中心だった道路組合は、大正10年にこの路線が県道へ昇格したことを見届けて解散していた。そこで今度は同村が中心となって、最大の難関、小積峠改修への猛運動がスタートした。昭和2年、県が多額の地元負担金を条件に着工を認めると、すぐに工事が始められ、翌年、小積峠を貫く全長110メートルの隧道を含む全線が開通。路線バスが走りはじめ、半島の交通は海から陸へ歴史的な転換を迎えた。

戦後のモータリゼーションの伸長は、観光に特化した新たな半島縦貫道路であるコバルトラインを、昭和45年に開通させた。大型車のすれ違いができない、老兵となった小積隧道は、生活道路として活躍を続けたが、昭和63年の新小積トンネル完成によって、ついに役目を終えた。隧道は閉ざされたが、陸の孤島を解放した偉業は、いまも色褪せない。