東北奇譚巡り
人と獣が近かった時代へ ①

かつて、人と獣が近かった時代
かつて、人間と獣の距離は近かった。人々は狐に化かされ、狼が棲む森に恐れをなしていた。現在では狐を見たことがない子どもたちもたくさんおり、狼はこの国から姿を消した。しかし、現在に残る伝承から人と獣との距離を感じることができる。
東北六県の中では最南端に位置する福島県。その県庁所在地である福島市は桃や梨をはじめとするフルーツの作出が盛んであり、果物の旬になると県内外からたくさんの人が福島市を訪れる。
夏になると巨大なわらじを作って奉納する「わらじ祭り」が行われ、多くの観光客が大わらじに歓声を上げる。この福島市に今も残る人と獣にまつわる不思議な伝承からまだ獣が人を化かし、人々を恐れさせていた時代に想いを馳せてみよう。


人を育てた狼
福島市に文知摺(もちずり)観音の名で知られる普門院という古刹がある。ここは小倉百人一首の歌枕の地でもあり、松尾芭蕉をはじめとする多くの文人が訪れた場所である。この敷地内に小さな池と石があり、そこに人と狼にまつわる伝承が残っている。
かつて、この池の近くに父、母、男の子の三人家族がいた。生活は苦しく、父は出稼ぎに出ていたが、ある日を境に帰ってこなくなった。その後に母も亡くなり、男の子は天涯孤独の身となった。
母の姿を探すかのように山をさまよい、疲れ果てて眠ってしまった男の子。すると、ふわっと暖かいものに身体を包まれていることに気が付く。一匹の狼であった。狼は男の子を優しく包み、その日から男の子のために様々な食べ物を運んでくるようになる。
男の子は狼に育てられ、すくすくと成長したが三日月の晩になると母が恋しくて人里におりてしまう。すると狼は池のほとりにある石の上に座り、遠吠えをして男の子を呼んだという。
ある日、母が恋しくなった男の子はついに池に身を投げてしまう。男の子の姿が見えなくなったと分かった狼はそれから毎晩石の上で遠吠えし続けたが、ある日から石の上に足跡だけを残してぱったりと姿を消した。
その狼が遠吠えし続けた石が「夜泣き石」と言われ、現在でも普門院の敷地内に残っている。現在では姿を消してしまった狼。かつては人間の近くに畏怖の対象として存在し、三峰神社をはじめとして神とまつられた獣である。



プロフィール
斉砂 波人(怪談・ホラー作家)
福島県生まれの怪談・ホラー作家。怪談の収集をライフワークとして活動している。単著にホラー小説KADOKAWA「堕ちた儀式の記録」、共著怪談集に竹書房「荒魂怪談」、監修怪談集に竹書房「無縁怪奇録〜いんがほどき」がある。

