仙台と山形最短の街道
藩にとって欠かせない記録
秋田藩に梅津政景(まさかげ)という人物がいた。初代藩主佐竹義宣(よしのぶ)に仕えた家臣で、国替えとなった義宣に従って秋田に移った。記録に残る政景の職歴は、32歳での院内銀山奉行から見られる。その後、総山奉行、勘定奉行、家老兼町奉行兼船越代官など、藩の要職を歴任した。11歳年上の義宣から大いに信用され、藩運営上欠かせない存在だった。
「梅津政景日記」とされる日記がある。政景が院内銀山奉行だった慶長17年(1612)から寛永10年(1633)まで書き続けた約21年間の記録である。個人日記でありながら、藩の家老まで上り詰めた能吏の記録は、藩の公式記録を補足する貴重なもので、初期秋田藩研究に欠かせないものとなっている。
政景は参勤交代に付き添ったりしながら、笹谷峠を何度も越えていて記述も目に付く。その都度峠のきつさや距離に疑問を持ったのか、元和8年(1622)に家来に命じて六十間の縄で羽州街道の桑折から山形町の一里塚(笹谷街道基点)までの距離を確認させた。その後、羽州街道の改修工事も進み、参勤路に羽州街道を使う大名が多くなった。参勤交代のルートは幕府に届けなければならないし、変更の理由も必要である。政景はどのような理由をもって届け出たのであろうか。
ほぼ直登ルートだった笹谷峠
笹谷街道は、仙台長町と山形七日町を結ぶ、仙台・山形間最短の道だった。奥州街道の宮宿(現蔵王町宮)から北に延び、途中の四方峠を越えて川崎宿で笹谷街道と合流する羽前道も、笹谷街道の脇街道扱いだった。
現在は県境部分の笹谷峠下を、山形自動車道の笹谷トンネルが通っているが、街道時代は急峻な山道が続く難路だった。旧峠は標高906メートルで、笹谷トンネル坑口(山形側607メートル)から300メートル近く標高が高く、冬期間の通行は困難そのものだった。
峠周辺はクマザサに覆われた八丁平で、ここに「有耶無耶(うやむや)の関」があったとされている。冬季間、八丁平で遭難した6人の人夫を供養したと伝えられる六地蔵も置かれている。廃寺となった仙住寺は吹雪の際の「お助け小屋」の役割を兼ねていたが、いまは礎石が残るのみ。蔵王大権現、三界萬霊塔、仙人大権現など、さまざまな石造物が点在している。
峠では太平洋側、日本海側の様々な物資が行きかったが、その中に仙台藩領からの紅花の荷もあった。山形村山は紅花産地として知られているが、仙台刈田・柴田も高品質の紅花を産し、峠を越えて最上川の川港から酒田へ、さらに北前船で京都に運ばれた。
改修の歴史
仙台と山形を結ぶルートは必ず奥羽山脈を越えなければならない。山形に近い峠の標高を北からみると、関山峠(630メートル)、二口街道の山伏峠(934メートル)、清水峠(1110メートル)、笹谷峠(906メートル)、羽州街道金山峠(623メートル)、二井宿峠(568メートル)となっている。
距離は近いが標高が高く峻嶮。これが二口、関山街道の特徴といえる。明治26年に山形側、同28年に宮城側の馬車道対応の改修工事が行われたが、十数年後には鉄道の時代となり、笹谷峠は時代の波から取り残されてしまった。その後、昭和32年から国道一次改築があったが、峠部分は手つかずのままだった。
昭和48年から笹谷トンネルを含む東北横断自動車道として工事が始まり、山形自動車道として平成14年に全線開通し、現在は国道286号と並行して利用されている。
【 街道コラム 】
笹谷峠には「阿古耶(あごや)の松」と「有耶無耶の関」の伝説がある。奥州に流された中将・藤原実方が探し求めたという「阿古耶の松」には、ほかに「阿古耶姫」にまつわる伝説の二通りがある。また「有耶無耶の関」伝説は、峠に人をとらえて食べる鬼がいて、山中の鳥が鬼のいるときは「有耶」、いないときは「無耶」と鳴いて知らせたというもの。笹谷峠を歩いてみると、伝説の風情が伝わってくる感じがする。
【参考資料】
『「梅津政景日記」読本』(渡部景一・著 無明舎出版)『仙台領の街道』(高倉淳・著 無明舎出版)