二本あった街道
漂泊の俳人、奥羽山脈を超える
子日庵一草(ねのひあんいっそう)という俳人がいた。江戸時代中期の享保17年(1732)、いまの北上市黒沢尻もしくは鬼柳で生まれたといわれている。芭蕉を敬い、定職にはつかず漂泊し、久保田(秋田市)の豪商で俳人でもあった吉川五明と交友があった。後年旅に出て、常陸潮来(いたこ)に芭蕉の時雨塚を設け、一時は時雨坊と号したこともある。
各地を漂泊しながら蕉風活動に携わり、最後は兵庫の神戸にたどり着いて生涯を終えた。神戸では現在でも「兵庫俳諧の恩人」として顕彰されている。
子日庵は五明を頼って何度か久保田を訪問している。その時通った奥羽山脈越えの道が、ここで紹介する平和街道だった。
榾(ほた)焼くや篠の火箸の長短
この句は子日庵が秋田へ山越えする前日、越中畑(えっちゅうはた)に宿泊した時に詠んだもので、榾とは焚き物にする木っ端のこと。翌朝、南部と秋田の藩境となる白木峠を越え、横手から羽州街道を歩き久保田に向かった。
白木峠は標高602メートル。ハイキングコースのように歩きやすい峠道で、何度かここを通ったことがある子日庵は、峠越えの緊張感もなく、穏やかな気分で囲炉裏火を見つめていたかもしれない。
五輪塔がある白木峠
平和街道という街道名は明治14年に命名された。秋田の平鹿と岩手の和賀を結ぶ道ということで「平和」が採用された。それまでは秋田に向かうから「秋田街道」とか、南部に行くことから「南部道」「白木越え」などと呼んでいた。
南部側の街道は、花巻市南城小学校近く、「奥州街道名残の松」が起点となる。そこから水田地帯を南下、和賀川を渡って平和街道の岩崎に至っていた。それとは別に、北上川と和賀川の合流点近くに黒沢尻河岸(川港)があり、平和街道からそこに通じる道もあった。陸上と舟運の物流における合流点であり、大きく見ると奥州街道と羽州街道を横につなぐ街道だった。
藩境となる白木峠には五輪塔とふきどり地蔵が置かれている。五輪塔は弘化2年(1845)、角間川(大仙市)から伊勢参宮に向かった一行6名が、峠付近で猛吹雪に会い遭難した供養塔である。春から秋にかけては穏やかな峠だが、冬は大変な豪雪地帯となり、一転して牙をむく峠でもあった。
南部側は白木峠手前の越中畑に、秋田側は白木峠を越えた小松川に御番所が置かれ旅人に目を光らせていたが、吹雪から守ってやることはできなかった。
謎の道・秀衡(ひでひら)古道
平泉が栄えた時代、平泉と秋田の金沢(横手市)をつないでいた「秀衡古道」という道があった。戦の道であり、和賀の山中で取れる金を平泉に運んだ道だったと伝えられている。北上川の支流・和賀川右岸に道はあり、湯田ダムの錦秋湖上流部の耳取までは平和街道とほぼ同じコースをとっていた。一方の平和街道は耳取から北西に進み、川尻〜湯本〜越中畑〜白木峠〜大沢〜横手と進んだ。対して秀衡古道は耳取から南西に向かい鷲之巣鉱山〜須郷〜筏〜大沢〜金沢というコースだった。
秀衡古道は長年奥羽山脈の藪に埋もれ、多くの部分が失われていた。しかし、神社、鉱山跡、目印とされていた大杉などが点々と残り、その道をつなぐことにより道の復活が実現した。
【街道コラム】
秀衡古道を復活させたのは、岩手県西和賀町にある「秀衡街道探査会」の方々。NHKテレビの「炎立つ」を観て、湯田町史談会のメンバーが興味を持ち、徐々に北上や和賀の人たちも加わり、探査・復活を始めた。
さまざまな史料を手掛かりに、地元のお年寄りから話を聞き、ようやくルートを特定した。復活は藪を払い、倒木を片付け、数年かかって歩けるようにした。
その後、秋田側も加わり、探訪会を開催し、看板や標柱を立てマップも作成。古道をいまに生きる道に変えた。
参考資料:『奥州・秀衡古道を歩く』相澤史郎著(光文社発行)